2006年09月30日

フラボノイドと言えば‥‥

先週から、「依存症克服」に関する連載続きで、何時もの「食べ物が作る健康」が延び延びになってました。今晩と、明日朝の二回続きで書き込みます。(「日本農業新聞」の「アンドユー」からなのはモチロンです)

さて、フラボノイドと聞くと、何となく効き目がありそうに聞こえるのですが、ガムに入っているという宣伝はよく耳にしても、「どの食物に含まれているか?」と聞かれると中々スッと答えられないものです。

ミカンの仲間で、「香酸かんきつ」と呼ばれるものがあります。ユズ・カボス・スダチやレモンそして最近話題の沖縄原産のシィクワーシャーなどの総称です。

フラボノド類は、色素の一種で、ポリフェノールの仲間に分類されます。香酸かんきつに含まれ、品種によって量の多少はありますが、ナリルチン、ナツダイダイン、ナリンギン、ヘスペリジン、ノビレチン、タンジェレチンなどです。

生活習慣病の予防に効果が高いとされ、がんの抑制や、動脈硬化の予防、血糖値の低減などが注目されています。シィクワーシャーは、ノビレチンが他のかんきつに比べて多いことから脚光を浴びました。

クエン酸は筋肉の疲労回復に効果的。米国の大学の研究によると、レモネード(レモン果汁を水で割った飲料)を飲むと、腎臓結石を予防できると発表。クエン酸が、結石の結晶が作られるのを抑えるそうです。

ビタミンCは、美肌効果や免疫力を高めてくれます。レモン(可食部100鎮50性帖法▲ボス(同42性帖法▲好瀬繊米40性帖砲覆鼻果皮に多いので、果皮を薬味に使うと効果的に摂取できるそうです。

それは知りませんでした。日本産のレモンは、輸入品との違いを出すために、果皮が緑色のグリーンレモンとして出荷されています。

国産のものは防カビ剤とかの散布もありませんので、よく洗ってゼヒお試しください。  

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「人望」とは何か?

おはようございます。改めて、タイトルの様に質問されたら、どう答えますか?
「人望」の研究
歴史学の専門家の本です。

中でも北条早雲は、歴史的にそんなに評価されてはいないのだが、歴史史料は限られている上に、史料を書き遺した人の評価という一定のバイアスがかかっているからで、通説とか定説といったものを見直す必要性や、「歴史は勝者によって書かれる」といった側面、勧善懲悪的なもので考えてしまうと、悪人とレッテルを貼られた人々の本質を見れなくなってしまうと書かれている。

長い時間の経過とともに、真実が見えなくなっている時代はひとまず別にして、敗戦後の戦犯裁判で懲役十年をいいわたされ、巣鴨刑務所に収監されたが、部下たちが巣鴨よりはるかに条件の悪いラバウル北方のマヌス島で刑に服していることを知ると、自ら申し出てマヌス島への移送を望み、部下と同じ苦しみを受けたという今村陸軍大将は、手柄をたてても、その手柄を独り占めにせず部下の手柄を褒め、軍の中で一番低いとされていた炊事当番を一人前の仕事と位置づけた人物だったそうだ。

連合軍最高司令官のマッカーサーをして「真の武士道にふれた思いがした」と語っただけのコトはあります。

上官も部下も同じ一人の人間である」という信念があればこそ、偉ぶることもなく部下も対等の人間としてみることができ、部下の手柄を盗まず、逆に自分の手柄を誇らず、部下の手柄として扱ったのだろう。

「率先垂範」ということで例に出されている山本五十六の「やってみせ、いってきかせて、させてみて、ほめてやらぬば人は動かじ」という言葉がある。「俺はやらないが、お前はやれ」ではなかなか人は動かない。人を動かす「人望」は、自ら進んでやってみせることにあるのである。

はてさて、現代の人物の中に「真の人望」がある人は、どれだけいらっしゃるのでしょうか?  
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2006年09月29日

親との関係を見直そう

依存症や共依存症から回復のプロセスに入って許しの段階が始まると、自分の親や家族との関わり方も新たなものに変更しなければなりません。

あなたの親と家族を「あるがままに」受け入れること----たとえ微妙な提案という遠回しの形であっても、彼らを変えようとしないこと。彼らの行動や人生の充実度を審判しないこと。

あなたがもらった「良いこと」をリストアップする----何もないと思うかもしれないが、遺伝的な才能も含まれる。それらに感謝しよう。

家族の陰口を言ったり、間接的に意思を伝えたりしないこと----きょうだい同士で伝言係になったり隠しこどをしたりするのは、良いことではない。「グチの言い合い」をしても家族の緊張は解けない。新しい話題を見つけるか、会話を減らした方がいいかも。

しきたりや家族の期待に従うのではなく、あなたが気持ち良くなれることをやること----自分なりの限界を学べば、家族と一緒に過ごすのはここまで、もう逃げ出さなくてはという時がわかってくる。そろそろだと思ったらすっと抜けられるよう前もって準備しておけば、苦しくならずにすむ。常に、自分で決めて行動したと思える計画を立てる。人の言いなりになってしまうと、怒りと無力感が残る。

親や配偶者がほかの人を虐待するところに居合わせないこと----無論、親からあなたへの虐待を許してはいけない。不快になる場から静かに離れ、自分を大事にしよう。腹を立てる必要はない。落ち着いて、それについて思うことをできるだけ正直に表現するのもよい。

対話や親密さを強いるよりも、自然に生まれる特別な瞬間を利用すること----親やきょうだいが普段より心を開いているときは、素直に話すチャンスだ。短くても、この絆を楽しんで、感謝の気持ちを持とう。

あなたの親が問題ありと感じたら、専門家に相談する必要があるかもしれない----手におえないのに、無理してはいけない。プロにまかせ、自分で何とかしようと思わないこと。

自分の劇的変化をよくわかるのは家庭以外でかもしれない----現実のあなたを少しづつ親や家族に見せていこう。自分の健全さを理解させるのは他人の方が優しい。しかし、最初は少々「おかしい」と親や家族に思われても、自分たちがひどくおびやかされなければ、そのうちに変化を受け入れてもらえるだろう。

新しいあなたになって、幸せへの道を歩き出すことを心より、祈っております。  
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成長を心から楽しもう

おはようございます。第三段階に入る前に、昨日、長野県庁に日本禁煙学界からの「敷地内禁煙を復活させて欲しい」と陳情に行かれた方の、報告の中から‥‥

議員に提言書を渡すために各会派の控え室に行って驚きました。
議員控え室は県庁施設内なので当然ルールとしては全面禁煙なのだが、灰皿が当然のように置いてあるのだ。

どういうことなんですか? そんな程度の低い県議を県民は選んじゃっているんですか?
「施設内禁煙のはずなのにどうして喫煙されているんですか?」と訊いたら
「ここ(議員控え室)は治外法権だからいいんだよ」なんて言う頭の悪いことを言う人がいた

ですって、驚きましたね‥‥モラルの欠如もここまで来れば‥‥治外法権は外交官特権でのみ存在する言葉であり、しかも、それゆえに外交官のモラルの欠如も問題視 されている昨今、権力を握れば何をやってもイイのだという発想。これが、この国の政治家の現実です。

そういう「依存症」を自覚できない方々は、一生そのままの人生を送るでしょうが、「依存症」の問題を理解している方々は、必ず脱却できるのです。

第三段階----私はどんな人間になりたいか

(1)回復をゴールとしてではなく冒険としてとらえる‥‥性格的欠点を全て取り除けば、何も問題のない健全な人間になれるという思い込みは、変化と成長のプロセスを考えるとそうはならないと気づくだろう。

たった一つの欠点も許されないと考える必要はありません。目標とすべきは、欠点をなくすことではなく、それに気づいて選択することです。

完璧にはならなくても、十分特別な価値ある人間なのだと自分を認め、ありのままの自分を見せ、自分の行動と感情に責任をもとうとし心がけることです。

(2)自分を許す‥‥自分を許す前に人を許そうと思うと、逸脱行為をした人のもっともらしい説明を認め受け入れるほうが、たやすいという様なことになりかねません。

安らぎの感覚、過去に対する慰め、なるべくしてこうなったという確信。自分が向上できたのは、ここまでの経験があってこそだと信じるに至る。本物の自尊心は、他人からではなく、自分の内部から生まれるのである。

(3)人を許す‥‥自分に何かした相手を、その行為の責任から解放してやろうという決意は、新たな生き方であり、家族や周囲を違った目で見る積極的で継続的なプロセスである。

「人を許して」生きていこうとするとき、私たちはもう犠牲者ではなく、人生から何を手渡されても受け身でいることはない。その結果に責任をとれるのだ。

新しい信念や行動、態度を自由に選べると感じたとき、変わることはできる。このプロセスは「回復」というよりも「人生! 」と呼ぶにふさわしいところまで発展していく。  
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2006年09月28日

新たなアイデンティティーを獲得するには‥‥

では、今朝の続きです。

(3)恐怖心と罪悪感を味わって、とにかくやる‥‥これまで生活にとけ込んでいた行動を変えようとするとき、恐怖心や罪悪感が表に出てくるのは自然なことだ。これは変化を大きく妨げる障害物にはならないから、そのまま素直に表現し、とにかく前進していけばうまくいく。

共依存の人たちは治療にたどり着くまでに、自分に「できない」行為をどんどん増やしてきた。一人で運転する、高いところに行く、人が集まったところで話す、自分の話をする、心から泣く、上司に対して自己主張する、ホウレン草を食べるなどがここに含まれる。つらい環境で成長してくる間に必要とされたのは、なけなしの安心感と自尊心を失う危険などないよう気を配り、ひたすら自分を保護することだったのだ。

新たなアイデンティティーがでてきたときには、このリストにある項目を消し、一つひとつを課題にして、あわてず一歩一歩踏み出すことが必要だろう。何年かかっても、大切なのは、「私にはできない」行為の数を減らし、もっと豊かにもっと自由に、もっと人生をまっとうすることだ。

これらたくさんの新しいことは周りに悪い作用をすることはない。良い影響を与えるだけだ。あなたは、一緒にいてはるかにおもしろく楽しい人になる。けれども、変化によっては最も身近な人の反発を呼ぶので、受け流すには大変な努力が求められる。

自分よりもほかの人の欲求や希望を優先させるのに慣らされている人が、自分のためになることをやると、決まって罪悪感という黒雲に覆われるような気がする。

しかし、限界を決めてそれを守り抜き、同時に自分を大切にする時間を増やし始めると、文句を言われるかもしれない。しかし、いずれちぐはぐな態度よりも今の毅然とした態度を受け入れるようになってくれると信じよう。

恐怖心も罪悪感も行動する前に立ち止まり考え直すきっかけとして利用するなら、健全な感覚となりうる。恐怖心と罪悪感を、赤信号ではなく黄信号と見れば前進が続けられる。

練習を積めば新しいことも怖くなくなるし、行動していけばやがて罪悪感から解放されるだろう。自分の行いは正しいという確信だけで罪悪感がたちまち消えると期待してはいけない。この反応はかなり自動的なものになっているから、すっかり消えるまでには時間がかかるだろう。  
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自己発見の大切さ

おはようございます。では、回復のプロセスの第二段階です。

第二段階----私は何ものか

(1)自分を大事にすることを生活に組み入れる‥‥悪い意味のわがままと、自分を大事にすることには格段の差がある。自分を大事にする営みから家族や友人に伝わるメッセージは、自分はごまかしをする必要も人の望みどおりにする必要もない、責任感のある健全な人間であるというものだ。敬意をもって扱われる価値が自分にあると教えてあげるのが一番だ。これこそ、自分で自分をどう扱うかということなのだ。これは人の面倒をみなくなるという意味ではなく、自分優先にするときもあるということにすぎない。

どこの親も、自分の欲求よりも子どもの欲求を優先させるときがよくあるのを知っている。これは結婚生活や大事な交友関係でも出てくることだ。回復途上で生まれる重要な変化は、大切な人のために自分の欲求を棚上げできるようになることだ。もう罪悪感や義務感から行動したりはしない。自分の欲求がおよそ満たされていれば、実際、人に譲ってもいやな思いをしなくてすむ。

自分の欲求を、攻撃的にならずに伝える学習が大切だ。自分自身の限界を決めることもまた、自分を大事にする手段だ。疲労や不満という内部のシグナルに気づいて自分を表現することだ。

自分を大事にすることになったあなたに友人や家族が慣れるまでには、少々時間がかかるかもしれない。突然ひどく自己中心的になったかと思うと、まるきり自分のことを考えなかったりする。バランスは実践とともに訪れる。

(2)苦痛が出てきたら、それを味わって人に話す‥‥人のありようは、感覚によって作られる部分が大きい。記憶が回復するとき、過去が再現されるたびに強烈さは減っていく。

苦痛が表面に出てくると、それに対処しようとして慣れ親しんだ嗜癖的、強迫的行動に誘い込まれるかもしれない。感情のふたに使っているものを絶てば、うろうろしないで苦痛から抜けられるだろう。食物やセックスや人間関係、仕事やニコチンなどで抑圧し続けている限り苦痛は消えない。

強烈さが減っていくにつれ、より適した場を選んで苦痛の表現を待てるようになるだろう。こうした延期は抑圧ではない。あなたの自尊心や、同僚・子どもなどとの関係が傷つかないようにする健全なものだ。治療のなかで、一度大きな放出がされてしまえば、感情を吐き出す時や所をはるかにうまくコントロールできるように思えるだろう。

仕事の時間ですので、続きは晩に‥‥  
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2006年09月27日

回復のプロセス

今朝の問題を考えると、やっぱりもう少し詳しく、どうやって回復するのかを書き込んだ方がイイのではないかと思いましたので、前のと重複する点もあるかもしれませんが、しっかり書き込みしておきます。

第一段階‥‥私のどこがおかしいのか

(1)問題の見極め‥‥自分に問題があるという気付きが必要になる。この悟りは、突然自分に問題があると悟る場合も、あまりにも微妙で心にしみ込むまで数年かかることもある。けれども、気付いたからには、引き返すわけにはいかない。問題の見極めとともに、自分の居場所を見つけたという感覚がやってくる。

「自分のせいでこうなったのではない----私一人の問題でもなかった!」とわかると安心感が感じられる。依存もしくは共依存であることを発見することから回復は始まる。

(2)「話さないルール」から抜け出す‥‥問題が何かを知ったら、それを人と分かち合うことが大切だ。多くは何が悪いのかを知りつつ、つらい秘密を胸に秘めて育ってきた。人に話しても何も変わらないと思い込んできたからだ。過去は置いてきなさいと言われた彼らが大人になって知ったのは、どのみちそれはついてくるということだけだった。

長年秘密を守り通してきたせいで、自分の考えを検閲し、大丈夫そうなもの、できるだけ人を刺激しないものだけを見せるようになっている。この過程で彼らは、人と感情を共にして親しくなり、打ち解ける機会を除いてしまうのだ。

自由に話をするようになって間もない時期に、むやみに相手を信じきって洗いざらい話すのはいいことではない! 

信頼のおける人もおけない人もいるのだから、まずそれほど大事ではないことで探りを入れるのが賢明だろう。

(3)助けを求める‥‥自分の「無力さ」を認めることは、第一歩だ。変化を始めるにはまず、一人きりではやり通せないという理解が欠かせない。自分のもつ知性や経験や力を無視する必要はないけれど、人生をある程度素直に眺めてみれば、それだけでは不足であることがわかる。

自分にも欲求があることを知ることである。「ノー」と言うことを学べば、自分に必要な時間が手に入る。  
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依存症を自覚しないと恐ろしい!!

おはようございます。何時の間にか、ブログの一番の柱が、「依存症」に関する記述になっているような気がする今日この頃なのですが、恐るべき報告があります。

ミクシィの中のある方の日記に、「長野県は喫煙県に逆行しそうだ!!」という趣旨のコトが書かれていました。(少なくとも時間を区切って喫煙出来ないのは、ニコチン中毒であり、依存症であるコトは説明をするまでもナイと思いますが、一応)

22日に行われた長野県庁部長会議で、これまでの長野県施設の敷地内全面禁煙が撤回され、分煙で構わないという決定がなされました。
これは時代に逆行する決定であり、住民の健康と安全を最小のコストで守るという地方自治法の理念からも逸脱しています。

今回の全面禁煙撤回を受けて、さっそく県施設のいくつかは「全面禁煙でなくなったということは喫煙可になったということだ」「分煙というのだから隅っこで吸えばいいじゃないか」というようなことを言い出しており、定まらない方向性による弊害が現れています。

今回の部長会議の決定の前には腰原副知事(就任直後から禁煙の副知事室で喫煙を常習していた)や、喫煙議員団(笑)が撤回を決めてから、それを部長会議に提案し、経営戦略局の禁煙政策担当者が出張中の部長会議で決定を出させてから、メディアに発表するという流れがあったようです。

依存症の方々の問題というか、再犯をする犯罪者にも共通した特徴なのですが、イメージのゆがみを感じますね。

つまり、自分に非があるコトに気付いてナイ、非がある環境に育ったコトに無自覚、ゆえに、問題は全て自分の他に存在していて、自分の中にあるコトに気付いてナイというコトなのですが‥‥

ですから、自らが治療すべき存在ではナク、周囲を自分に合わせてしかるべきという感覚になってしまうのですが‥‥

性犯罪を犯す人間は、「(たとえ相手が幼児であったとしても)相手だって本当はそうして欲しかったのだ」という歪んだ考え方をしているので、再犯の確率が高いのです。

環境がそうさせたというコトで許される問題ではありません。大人になるというコトは、ただ年齢を重ねれば出来るコトではナク、いかに自分の中の「アダルト・チルドレン」の部分を他の部分と釣り合いが取れたバランスの良い人間になるかという問題なのです。

アダルト・チルドレンはもろくはない。深い苦痛に耐えてきた年月があるのだし、抑圧という手段をうまく使うこともできる。

恥ずべきコトは、アダルト・チルドレンである自分ではナク、そこから脱却しようとしない自分なのだというコトです。

ともあれ、依存症に無自覚な人が権力の座に就くのは、とてつもなく恐ろしいコトだと、つくづく思い知らされました‥‥  
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2006年09月26日

犠牲者から脱出しよう!!

虐待からの回復には三つのステップがあるそうです。

最初のステップは、虐待をきちんと認識すること。

虐待を見極めていく間に秘密のベールが取られ、犠牲者だと認め、「あれはひどかった。私は傷ついた。子ども時代を奪われていた。あんな扱いをされることなんかなかったんだ」と。

記憶の洪水が押し寄せることもあれば、せき止められたままの人もいる。虐待の具体的な記憶には、現在から手をつけ、回想しながら、時間を掛けて記憶をよみがえらす場合もある。

この時点で、親や元配偶者に対する怒りがわくことも珍しくない。怒りや非難を向ける対象もその過程でたびたび入れ替わる。大切なのは、何かが間違っていたという現実に犠牲者が向き合うことなのだ。

ごまかしや隠しごと、家族への忠誠心に妨げられて、虐待の存在を考えたり認めたりすることができない場合もある。過去に対して「正直になる」ためには、現在の生活で見られる証拠に目を向ける必要がある。

第二のステップは、虐待にまつわる感情が浮かんできたとき、それを表現することだ。

専門家の介入が必要になり、信頼できるセラピストやグループメンバー(肉親ではない人)のいる安全な場所であれば、怒りをありのままに表現できる。怒りのもとには深い悲嘆がある。それまでの人生で経験してきた、数多くの喪失に対する悲嘆だ。

怒りと悲嘆がいったん放出されると、少なくともある程度は以前よりも自由な気持ちになれて、人との新たな関わり方を試してみたくなる。もういやな気分にならないというのではなく、かつてのような猛烈な怒りは感じなくなるということだ。しばらくすると、激怒ではなく、不快感やいらだちという正常範囲の怒りを味わうようになる。

爆発しそうだった感情は、コントロール可能なものとなり、その表現にふさわしい時と場所の選択を教わるのだ。

最終ステップは「理解」である。他者も自分も等しく犠牲者であるという受容の心だ。

安らぎや落ち着きも、固い決意や意志の力によってではなく、身をゆだねることで手に入る。親しい人たちとの間で、話し合いや限界設定がされ、自分をこういうふうに扱ってくれと人に教えられるようになり、にじみ出た自尊心が、その人柄に敬意を払ってくれる人たちを引きつけるようになる。  
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大人になっても残る問題

御仕事で遅くなりました。来月からは、ホボ午前の部は定時更新に戻る予定です。

子供時代に虐待されていると、大人になってもこんな傾向があるそうです。

●友人、きょうだい、親戚に極度に依存した関係。一方的に世話をする様な「偏った」関係でほとんど報われない。

●電話によるいじめ。他者からの悩み、要求に昼夜を問わず悩まされる。電話を切るという選択肢を思わず、「誰かが傷つくなら、自分が傷ついたほうがまし」だと思う。

●配偶者などの浮気や愛人関係。中には、相手からその話を直接される人もいる。

●セックスの強要。「求めに応じないなら‥‥」という心理的脅しを受ける。

●逆に、セックスをお預けにして支配権を保つ人も。

●「ジキルとハイド」的な人格で、相手にその状態への順応、防止、隠蔽を期待される。

●経済的に虐待され、扶養を反故にされたり、カード依存、ギャンブル依存と等しい、経済的・心理的圧迫を受ける。

●子どもからの虐待。物事の限度をはっきり示さないので、言葉や身体で要求される。思春期以後、下僕扱いされることも。

●職場でのいじめ。セクシャル・ハラスメント、不当なストレス、要求、圧力などをかけられても、やめてくれと言えない。

「No!」と言えない日本人という評がありましたが、ホトンドの日本人「イヤなものはイヤ」と言えない傾向が高いという意味では、問題は根深いのかもしれませんね‥‥

夜は、抜け出す方法を詳しく。  
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2006年09月25日

心理的虐待とは

身体的虐待、近親姦、度の過ぎた暴言などは、社会に容認されないが、心理的虐待は、個人的で微妙なので、本人が気付かない時もあるそうです。

以下に挙げる心理的虐待は、専門家さえも見逃すおそれがあり、時間の経過とともに自尊心を深く傷付けていく例だそうです。幼少期に次のような状態になった経験はありませんか?

●厳しく支配的なしつけの強制。侮辱、いやみ、皮肉、からかい、ののしり、絶え間ない監視、批判。

●無規律または無制限。子どもが自分で、良いか悪いか、安全か安全でないかを判断せざるをえない。

●厳格な子育て。何事にも「正しい」やり方があり、許容範囲が非常に狭く閉めつけが厳しい。子どもは個性の表現や人生での選択を学ぶことができない。

●無言の暴力。長時間口をきかないことを支配や懲罰の手段にする。「あなたなんかもう愛さない」と言う、無言のメッセージ。

●むら気と一貫性のなさ。親の頻繁な気分変動を子どもが先読みして、それに合わすように強いられる。

●子どもに聞こえる場所で、配偶者の問題を話す親。それを聞く子供への配慮がない。

●子どもを友人や配偶者扱いして、善悪など、大人の問題へのアドバイスを求める。

●子どもが傷ついていても、虐待されていても、何もしない。

●ありのままの気持ちの表現を拒否する。親は感情を表現できるのに、怒るのも、恐怖を感じるのも制止される。

●子どもの心の痛みや傷に無関心。

●殴る、捨てるという脅し。心配と恐怖によって子どもを支配。他の兄弟への体罰。

●情愛と触れ合いの欠如。

●遊びや笑いの禁止。

●子どもの年齢相応以外のコトを強要する。背伸びさせたり、親離れの邪魔をする。

●愛情過多と過保護。

●ムラがあり、気まぐれな子育て。兄弟でえこひいきをする。ひいきされても、されなくても同じように心理的虐待を受ける。  
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怒りの封印はどう解けるか

おはようございます。

感情が封印されているのも困るのですが、それは親が激怒する姿を普段から目にしているタメなので、大人になって自立した生活に入ったとき、不適切なところで「じわじわと」出してくる例が少なくありません。

健全な人にとって、怒りの爆発は日常的な反応ではありません。よほど悲痛な事件でもなければ、怒りはイライラや不快のレベルにとどまります。しかし、ちょっとしたいらだちを軽くみる能力を養ってきたので、逆にささいなことが「引き金」となって、見境いなくカッとなり、対人関係や職を危うくする深刻な害を呼びかねない。彼らが怒りの矛先を向けているのは、手近なところにある小さな出来事ではなく、怒りの表現が許されず、家庭内の問題を増やさない「犠牲者」として過ごした長い歳月なのです。

よく見せようとがんばっていた親の怒りを無意識に身につける場合もある。こうした親は、怒りは物事がうまくいってない証拠だ、幸せなカップルや家族はケンカなどしないという見方をしている。親が過去に処理出来なかったものの、後始末をしている場合もある。

怒りを感じることで出てくる悪影響は対人恐怖から潰瘍、児童虐待まで多岐にわたる。この心の「火事」をどうにもなだめられない場合は、過去からの怒りを効果的に放出する安全な場が必要になる。

感情を見極めて、表現を学ぶことが必要だ。

過去にまつわるものが浮かび出たとき、それらが洪水のように押し寄せてくる場合もある。

孤立、むら気、やりすぎなどという防衛をしても、表面に出てきた深い苦痛は覆いきれない。たいていの人は支障の出ない程度に機能し続けて、初期段階の一時的な危機を切り抜けられる。

最終的には、一段階上のコントロールが生じ、好きな時に好きな場所で感情を表現できることに気づく。より安全で適切なときまで涙を流すのを延期できるようになり、それをもう一度「押し込ま」なくてはならないという恐れもなくなる。喜びを感じ、愛する人たちとの親愛の絆を実感できるようになる。

そして、虐待を認識し、苦痛を表現し、理解できればいいのである。

目指すのは、苦痛の認識と放出、思考と行動の再編成、そして徐々にやってくる解放と許しなのです。  
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2006年09月24日

自分を受け入れるコトの大切さ

本日は「UDON」を息子と見て来ました。ナカナカ面白い映画ではありました。仕事中毒の男性なんかも出て来て、「ウーン」と考えさせられる部分もありました‥‥

さて、続きなのですが、感情が抑圧された家庭で育つと、怒り、悲嘆、傷ついた気持ちなどをほとんど解放することがなく、それらを自分の内に向けてきたように見受けられる。これがしばらく続くと、抑圧された感情、特に怒りは、周期的な「落ち込み」として表れるが、これもほとんどの場合、極端な落ち込みではなく、漠然とした無力感や孤立感や悲しい気分である。これらの症状は単純なミスや軽い失望が引き金になって、あるいは何のきっかけもなく引き起こされ、数日間、数週間、ときには数ヶ月継続することさえある。

自分を否定的にとらえ、「こんなふうに感じちゃいけない」と思い込むことで、彼らはいっそうの苦痛を強いられるばかりだ。

ここから抜け出すには、怒りなどの感情表現はもちろんだけれど、「落ち込んだ」ときに、もっともな説明を求めるよりも自分をもっと受け入れることだ。うまく説明がつけられても、うつからの回復は早まらない。

周期的うつとよく似た不安の高まりも報告されている。それは、瞬間的な恐怖感から身体反応を伴う本格的なパニック発作まで広範囲にわたっている。

多くの人が不安とうつ状態を交互に経験している。彼らは恐怖に取り囲まれて自分の生活を築き始めるけれど、その恐怖は子どものときからあったものだ。

大人になっても子ども時代の恐怖をそのままもっているが、羞恥心からそれらを押し隠し、苦痛にふたをし、自分の生活を調整しておびえの元になるものを避けようとする。その成果が、自制心をなくしはしないか、無力になりはしないかという漠然した恐怖なのだが、これらはほとんどの人たちに日々訪れるものである。

不安がふくれあがって周期的なパニック発作に変わると、正常な機能、たとえば外出や車の運転などができなくなってしまう。これが極端な依存のパターンになると、ニセの有能感が生じて親しい人を支配する。その人たちは彼らの世話を焼き、保護者の役を努めなくてはならない。

自分らしく生きるには、自分の感情を大事にするコトが大切だというコトです。  
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自分を追い込まないタメに

午前が終わりそうな時間になって来ました。ブログを書こうと思っていたら、「日曜なんですが‥‥」という御電話が‥‥明日は予約がイッパイなので、スグ来て頂くことを条件に、御仕事しておりました。

では、昨日の続きです。

自尊心が強くないと、強迫的な行動に苦しみやすくなります。食物、セックス、仕事、人間関係、喫煙、買い物、アルコール・薬物乱用などの強迫的行動に苦しんでいるそうです。中でも、仕事と食物が最多らしいのですが‥‥

見かけだけは健全でも、機能不全になり、罪悪感を背負い、物質依存になる傾向がとても強いというコトです。

そして、秘密主義の傾向も強くなります。大したことでもナイのに、秘密にしてしまうのです。

つらいことが話題になると、見捨てられたり暴力や深刻な被害を受ける脅威があるので、自動的な反応となり、率直な話を進んでしなくなるのです。必要最低限の話、打ち明け話はめったにせず親が生きているのを見ると、子どもはこれが「正しい」やり方だと思い込み、大人になっても、誰かに「ありのまま話す」ことなしに機能していく習慣がついています。

自分の気持ちよりも、近所のこと、天気やニュース、ほかの人の悩みのほうが話しやすくなったり、非常に活動的になり「忙しく」して家族や友人と親しくつきあう時間を作らず、生活する様になります。

しかし、それでは苦痛や不快感からまぬかれる一方で、自分以外の人に理解され受け入れられる喜びもまた逃してしまうのです。

互いを知るというコトは、表面的な関係からではどうにもなりません。自分が自分を正しく知っているかどうかという問題もありますが、相手に心を許さなければ、相手も心を開いて受け止めてはくれません。往々にして、人間は自分の誇らしい部分を誇張して話しやすいものですが、他人の自慢話を聞きたいと思っている人は、そんなに多くありません。ツライ話の方が、共感を呼ぶものです。

自分にも、相手にも、それなりの傷や傷跡があって、当たり前なのです。それが全くナイなどというコトは、逆に不自然です。互いに相手の弱い部分も受け入れてこそ、仲良くなれるのだというコトです。  
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2006年09月23日

何が問題なのか?

今朝の続きです。ゆがんだ家族イメージは一体、どうして問題なのでしょうか?

自分が育った家族は、悪い家族だったと思うより、素敵な家族だったと思う方が、一般的にはズッとイイだろうと思います。

しかし、「バラ色の眼鏡」を掛けていると、真実を見れなくなってしまうのです。そして、それに対する自覚がナイので、自分の周囲の機能不全や愚行に気付かなくなってしまいます。

苦痛があっても、苦痛を感じなくなってしまうと、他人に援助を求めるコトもありません。

生活が手に負えなくなっても、自責の念が強いので、悪いコトは皆、『自分のせい』だと思います。

表面的な人間関係を作るのは得意ですが、本当の親密さというものは苦手です。

批判的な親を持った子供は、ありのままでいると危険だとごく早い時期に学び、二、三歳という幼いときに、何が受け入れられるかを計算し、「本当の人格」を黙らせてしまう。自己評価の低い彼らは、世の中が見たがっていそうなものを見せる習慣をつけ、その結果、ニセの自己ができあがって、か弱い自尊心が守られ、生存に欠かせない承認を手に入れます。

訓練によって、いま見せている姿が本物だと人を納得させる、詐欺の腕を上げ、他人に相手が離れていかない程度のぎりぎりの情報しか出さないので、全体像は誰にもつかめなくなります。

手助けを求めるべき場面でも、間違ったのは自分なのだから、自力で修正すべきと考え、必要なものは必要だと表明するコトは健全な依存なのに、全てが弱さであると感じ、避けるべき恥と思ってしまう。

失敗は、学ぶことのできる経験なのに、問題点を指摘し直させたり、てっとりばやい返事をさせるコトで、親が子ども自身に考えさせる経験をしないと、難しい問題を前にした時に、他の人の意見や助力を計算に入れる力がつかなくなってしまうのです。

まだ、あるのですが、本日はこれまで。続きは明日というコトで‥‥連休だと思うと、力が抜けるので、ドッと疲れが出ております。ともあれ、疲れが出るから病気にならない様に、弱い部分は無理に隠そうとしない方が、ダメージは残りません。弱点があってコソ人間なので、スーパーマンとは違うのだということを覚えておいてください。  
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次世代アダルト・チルドレンの苦悩

おそようございます。虐待も身体的だと判りやすいのに、精神的なものだと外側から理解されにくいのと同様、次世代のアダルト・チルドレンも自分の環境が大変であるコトに無自覚な場合が多いそうです。

確かに、そうかもしれません。特に、日本に多いのが「仕事依存症」の人々。アルコール依存症の親を持って、破綻したような人は、「問題があるかも‥‥」と自覚したり、救いの手も差し伸べられやすいと思いますが、「仕事依存症」の人は「病気」と認知されていませんから、「親はあんなに働き者で立派な人だったのに……」と言われかねないと書かれているのを見ると、納得します。

昔、日本が貧しかった時は、親も子も必死になって働かなくては生きていけなかったのです。御客様の話とかで、いわゆる御手伝いが、「今の感覚でいくと重労働だよな」と思うコトが時々あり、おそらくそれがコリの発端だろうなと思うコトがシバシバあります。

例えば、水道が無かった時代には、水は他から汲んでくるよりありませんでした。何と当たり前なと思うかもしれませんが、井戸で水を汲む、川から水を汲んで来る。水は体積の割りに重いものなので、大変です。

「風呂の桶をイッパイにするのは大変だった」という話はヨクお聞きします。何度も何度も汲んで運んでの繰り返しだったそうです。重過ぎればそれはそれでツライけど、軽ければ何度も足を運ばなければならない。水なら、さほど失敗しても困らないので、小さい子供に打ってつけの仕事だった様で‥‥

その時代に、「大変過ぎて、イヤ!!」という選択は中々出来なかったと思われ、勤勉第一の思想は幼少の頃から埋め込まれてますから、日本人の「働き蜂」の習性は簡単には抜け切れないものだと思います。そして、そういう人々は、次世代の子供にも、「仕事中毒」の人生を歩むように刷り込むワケで‥‥それを拒絶すれば「ナマケモノ」の烙印が押されてしまいます。

かくして、誰の中にもあるアダルト・チルドレンの部分が病的に増大した人のみが問題になるのではありますが、日本人の「勤勉性」が「依存」や「共依存」を生み出しやすい土壌となっているコトは、自覚されにくい問題なのだというコトを知るコトから始めないとイケナイのかもしれません。  
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2006年09月22日

自尊心を持とう!!

では、今朝書くハズだった本の話です。
アダルト・チルドレンの子どもたち―もう一つの共依存世代
この本は、過去に断ち切ったハズなのに、代々続いている負の連鎖について書かれています。

で、問題にされているのが自尊心の低さ。

一家のヒーロー」は、外から見ても悪くないので、自尊心の低い犠牲者であることが最もわかりにくい。けれども、この人の調子が悪いときを見てみよう。何かミスをしたり、締め切りを守れなかったり、友人を失望させたり、思いやりのない発言をしてしまったときを見ると、自分はダメだという感覚が心の底にあるのがわかるだろう。他者、特に家族を喜ばせ認められる努力をヒーローにさせてやまない原動力は、自己イメージの貧しさにある。ヒーローもほかのアダルト・チルドレンも、「もし……ならば私はOK」と自分を条件づきで愛する。

スケープゴート」は、見るからに自滅的な行動をして自尊心の低さを表す。権威に対する反抗、ときには抑えの利かない怒りや激怒という形をとり、成人してからもこれは続く。しばしば人を虐待するようになり、心の葛藤や自己嫌悪を行動化する。

忘れられた子」は、ダメな人間だ。人より劣っている。この世で一人ぼっちの迷子だという感覚につきまとわれて苦しむが、実際のおびえの正体は自分にもわからない。自尊心の低さは外見にも表れ、極端に内気で引きこもっているように見える。ヒーロー同様、かなりの才能や創造力をもちながら、自分の成功を楽しみ、人と分かち合うことができない。

一家のマスコット」は、ユーモアやか弱さ、病気などで常に人を引きつけるが、それは「私は傷ついた」という彼らなりの表現なのだ。スケープゴートと同じく家族の思わしくない反応を呼び、苦痛も、自分はダメだという感覚もかえって強まってしまう。

自分がどれかに当てはまると思う方は、次回からを読んで参考になさってくださいね。  
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他者への思いやりがある社会へ

仕事の関係で、午前の更新遅れました‥‥今日も新たな本の話をしたいのですが、その前に「国旗国歌強制は違憲」との判決について一言。ワタシとしては、首相の靖国参拝も信教の自由とはいえ、止めて欲しいのと同じく、起立、斉唱したくなくても国旗に敬意を表さずとも立つくらいのコトはしてもヨイのではないかと思います。無論、強制は絶対に反対なのですが‥‥

起立したとしても、国旗に頭を下げる下げない、国歌を歌う歌わないは別として、学校というのは共同生活の場なのですから、混乱を避けるゆとりがあって欲しいものです。

行き過ぎた自由は、学生が授業時間に机に座らずに好きなトコへ行ってもヨイという自由につながりますし、憲法にも社会(公共の福祉)との兼ね合いで自由が尊重されるべきであると書かれているハズです。

国旗国歌法を制定する時には、「強制はしない」と言ってたのですから、強制はすべきではナイでしょう。

それと同じで、首相が靖国を参拝しないのは、脅しに屈したからとかではナク、他国の人の心を慮ってというコトであれば、少しも他国の圧力に負けたというのとは違うのでは?

心が広ければ広いだけ、他者に対する思いやりが生まれてしかるべきなのでは?』と思います。物事は勝ち負けばかりではナイはずです。

ピアノ伴奏したくナイ人に、わざわざ引かさなくても引きたい人に引いて貰えばイイのだし、イヤイヤ引かれたのではピアノだって気の毒だと思います。

ともあれ、新しく入学する生徒や、学校から巣立つ生徒を温かく見守ってやるタメにも、一個人の感情は多少は自ら制限してあげるだけの優しさがあってもイイのではないかと思うのです。

ともあれ、1998年の国会答弁で当時の官房長官は「法律ができたからといって強要する立場に立つものではない」と強調したのですから、当然といえば当然の判決だと思うので、こんな風に濫用され、この判決で大騒ぎするコト事態が異常だとワタシは思うのですが‥‥  
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2006年09月21日

病気になっても、病人になるな

読むクスリみたいな本です。
養生のお手本―あの人このかた72例
タイトルの言葉は、女優の木暮実千代さんの言葉。「病気のデパート」と自称しつつ、この言葉。ナカナカ言えるものではありません。

同じように大病を患いつつも、米寿まで生きた作家の白州正子さんは、「人間の命なんて自分の力ではどうにもならない。そう思い定めてしまうと、案外この世は生きやすいものである。死はいつも私の隣にいる。いや、私の中に在る。度重なる病気の体験は、私にそういうことを教えてくれたようである」

早稲田大学の創立者として有名な大隈重信さんの「長寿は努力してかちとるもの」なんてのも、イイ言葉ですね。その精神的健康法は、

一、怒らないこと
二、ぐちをこぼさないこと
三、過去をふり返らぬこと
四、望みを将来に持つこつ
五、人のために善をなすこと


画家の東山魁夷さんは、軍隊での体験から、「私は人を見るのに、才能、富、地位というものを洗い去って、その後に残るもので見るようにしている。また、自分にもそれを反省の糧とするようになった」と。

六代目、尾上菊五郎さんは、「ご先祖さまに礼。天に対する礼。火、水に対する礼。何事も無我。何事も職業第一。何事も正しく。何事も親切に。何事もまっすぐに。何事も忘れずに。取り越し苦労はやめ、明日の事は今日思うべからず。今日一日をただ朗らかに暮らすべし。一、二、三、腹から大声で笑うべし」だそうです。  
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前向きに生きる秘訣

おはようございます。昨夜の本からです。

憎しみはどんなときに強く思い出しますか?
・自分が落ちこんでいるとき。
・思うように進んでくれないとき。
・鏡を見たくないとき。
・みんなが幸せに見えたとき。

憎しみを忘れているときは、どんなときですか?
・楽しいとき。
・人に認められたとき。
・歌をうたいたいとき。
・鏡を見るのが楽しいとき。
・他人を意識しないとき。

自分に満足する生き方とは?
・いましたいことをする。したいことを見つける。
・立派なこと、大きなことではない、ささやかなことをつづけること。
・自分を磨くこと。「体を磨く、教養をつむ、お洒落をする」
・今日を好きなように過ごすこと。
・自分の時間をもつこと。

どうでしょう?

ココに上げてあるコトだけが全てとは思えませんが、こうやって箇条書きにされているのを読むと、『そうかも』と思ったり、『アト、これもあるよね』とか思うかと思います。

自分で考えてみれば、もっと自分にピッタリと思える秘訣が見つかるかもしれません。

過去は「過去」として認め、「現在」を大事にして、「未来」にひるまないコト。おそらく、それが大事なんだろうと思います。

どんなにツライ過去でも、それは過ぎ去ったコトです。未来に希望が持てない様なら、現在を変えないといけません。今のアナタの積み重ねが、アナタの人生になるのですから‥‥  
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2006年09月20日

今日、幸せになる!

タイトルに惹かれてブックオフで買った本です。

大和書房から出ている、大原敬子さんという方の本です。

短い文章で、自分が自分であるタメには、他人と比べないコトが一番大事なのだと書かれています。

ササッと読めるので、疲れてる時なんかに、気持ちを上げるつもりで読んでみるのもいいかもしれませんね。

焦ってしまうと、がんばろうとしても体がついてこなくなります。そして「やっぱり自分はもうダメなんだ」と落ちこんでしまうのです。
そして、気分はどんどん落ちこみ、精神的にうつの状態になるのです。


という時には、

元気になるための対処法として、何もしたくないという人を、何日も寝かせておくというのがあります。とにかく一日中ベッドに寝かせるのです。三日もたたないうちに、「こんな生活は嫌だ」といって働きはじめるという治療です。
精神的にゆとりができると不思議なもので、人から言われなくても自分から行動したくなるものです。
心が休みたいという信号をおくると、エネルギーは作動停止するのです。
そして心を空っぽにさせようと本能が働くのです。


というトコがあります。確かに、そうかもしれません。無理に頑張ろうとすれば、空回りしやすくなります。

疲れている時は、疲れていると素直に認めて、寝るのが一番だとワタシも思います。  
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他山(タイ)の石を見て考える

おはようございます。タイの軍事クーデターを見て、日本にもそういう時代があったのだと思い返しました。

今後、どうなるのか判らない段階で他国について意見を述べる資格はありませんが、世界全体が忍びよる軍事的圧力によって支配されそうになってきている様にも思います。

2.26事件というのが、日本にもあり、事件の背後にあったものとかは、戦前だったがゆえに、全く闇から闇へと葬り去られてしまいましたが‥‥軍部の腐敗が原因だったとか、様々な憶測は流れていますが、本当の動機などは解明されぬまま、現代に至っています。

歴史というものは、時の権力者によって描かれるものなので、真実は歴史とは異なるであろうコトは相当数あるハズです。

報道もどちらかに偏ったモノになるハズなので、真実を必ずしも伝えられているとは思えません。それでも、じっくり見ていれば、真実に近いコトが判って来るかもしれませんし、真実が時として握りつぶされる様子も判るかもしれません。

今の平和な日本は、過去の多くの日本人の犠牲の上に成り立っているのです。

無名だったがゆえに、犠牲になったコトすらも知られず、一家全員犠牲になったがゆえに、ちゃんと祀られもせず、亡くなっていった多くの人々が居て、現在の日本があるのだというコトを時々は思い出して、感謝しないといけないのだろうと思います。

別に、どこかを御参りしなくても、心の中でありがたいと思い、今の自由で平和な社会を大事にするコトではないでしょうか。

多くの人々は、名も無く亡くなっていきますが、有名であったとしても、亡くなってしまえば、それまでです。

過去の幾多の人々があってこそ、現在の我々があり、我々の行動が未来を作り出して行くのですから、将来に対しての責任ある行動は必要だろうと思います。

我々、一人一人の行動は微々たるものでも、その大きな纏まりが大きな力になるコトもあるのだというコトだけは、自覚しておかないとダメかもしれませんね。  
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2006年09月19日

科学は万能なのか?

今朝の本の続きです。

若月 科学は人間を破壊しますよ。ただ、科学技術が進めばいいってもんじゃないですよ。人間はやっぱり人間でなければ、たとえどのように科学技術が進歩しても不安でしょうねえ。私たちはやはり「ホモサピエンス」(現生人類)で、それから逃げることはできないと思いますよ。科学を過信するのは危険です。

住井(一番心配されていた朝永振一郎先生が)核兵器というのは、人類を脅かすが、それ以上に怖いのが生命工学だというのです。これができたら最後、もう人類は破滅すると。そこで、この遺伝子工学なんてのは止めなくてはいけない。生命をいじるということは原爆よりも怖いし、これに手をつけたら悪魔の学問みたいに絶対止まらないだろうと、予言されています。‥‥人間が生命に手をつけたらそれが人類の終わりになる。だから人間は他のものによって滅ぼされることはないだろうが、自分の智恵で滅んでいく。自滅していくんですね。

終末医療についても述べられています。

若月 (「植物人間」になって何年もして亡くなった方を)解剖したら、心臓も肺も胃も子どものように小さくなっていた。脳を開けてみたら、脳が溶けていたっていうんですよ。解剖した先生が「気味悪かったよー」という。脳がかたちをなしていないんです。

住井 医学は罪悪になりますねえ。

若月 もうそうなると、罪悪かもしれません。でもレスピレーターを止めることは医者にもできないのです。うっかりすると殺人罪に問われる。

住井 病人に拷問をかけているようなもんですね。

若月 あんなことをしてまで生かしていて、いいかどうかですねえ。その間、お嫁さんは自分の月給を全部付き添いのおばあちゃんにつぎこんでいた。いったい、そんなことに意味があるかどうかですねえ。

と続いて「安楽死」や「尊厳死」という問題が提起されています。実際、そんな問題に悩んでらっしゃる方々の生の声を聞いたりしていると、考えさせられる問題です。医学の進歩が人間の幸福に結びつくコトが本来、大切なのですが‥‥  
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いのちを耕す

連休明けで、午前の仕事を終わらせて、アワテテ書いてます。後は、午後の予約まで間が空いているので、しばしノンビリ出来ます。連休はありがたいのですが、前後が大変になるので‥‥何時も泣き言ばっかりの様な気が‥‥

さて、何ともステキな言葉が本日のタイトルですが、本の題名そのままです。
いのちを耕す

「橋のない川」が代表作の作家の住井すゑさんと、先頃お亡くなりになられた佐久総合病院を一躍世に知らしめた若月俊一医師の対談集です。農民医療の充実に尽力された、庶民の目線で話される、かなり稀な方でした。

この本の出版時には、93歳と85歳。共に長生きの方々の御話でした。島崎藤村の晩年の作品の酷評なんかもあり、とても有意義な作品です。ともあれ、昨今の風潮に対して、既に十年以上も前にこの様な警告がされています。

若月 ‥‥悪い教育に対して、私たちはたたかう必要がありますね。ひとつは社会を科学的に見るという考え方であり、もうひとつは良くない宗教に対する批判です。つまり、人間が絶対的なものを信じたくなる気持ちは、苦しい時には人間にはみんなあるものです。苦しい時の「神頼み」みたいに。民衆の中にあるそういうものを、権威がうまく利用して、そして都合にいいようなかたちにつくるという懸念です。民衆の中にそんな調子のよいことは有り得ないんだということを教えなければならないわけです。

住井 だから私は普通に教えればいいと思うんです。人間というのはみんな人間なんだ。要するに、そういうふうに神格化するというのは有り得ないのだ。‥‥

こういうコトが徐々に言い難くなっている様な気がするのはワタシだけなんでしょうか?  
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2006年09月18日

ハスの葉の論理‥‥

若干、今朝の続きの感がある話ですが、池を埋め尽くすハスの葉の話を知ってますか?

ねずみ算と似た様な話なのですが、毎日、面積が倍になり続けるハスの葉があるとすると、とっても大きな池で最初はチマチマと大きくなっていくだけに見えるのですが、何時の間にか大きくなっていると思うコロには、スグに池の半分くらいになって、そして、半分だと思った翌日には、池は全部がハスの葉で埋め尽くされてしまって、全ての動植物は日の光があたらずにハス以外全滅してしまうという話で、人口爆発するかもしれないという時に、ヨク用いられる比喩なのですが、日本は少子化でも、世界はそうではなかったりしますし、そちらの人口問題も地球は抱えているのですが‥‥

ともかく、人間は自分に危機が迫っていても、自分だけは逃れられるだろうと思いつつ、アッという間に死滅するコトすら有るという話です。

何でこんなコトを書いているかというと、吉野家に何の恨みもナイけれど、米国の牛肉を使用している牛丼にお祭り騒ぎで並んでいるニュースとかを見ると、確かに、狂牛病の発生率はとっても少ないのかもしれませんが、皆、自分だけは大丈夫だと思っているんだろうなと思ったりしてしまうからです。

ちなみに、人間が狂牛病に感染している牛を食べて、死亡するかもしれないという人は、確認されてナイというか、確認したくナイので少なくしか報告されてナイという可能性がとっても高いのと、発病までに時間が掛かる場合があり、最初のハスの葉みたいにアッと思った時には、取り返しがつかなくなっている場合が多いのです。

そんなに研究もされてナイので、人から人への感染があるか否かも含め、未知の部分がとっても多い病気だったりします。

ワタシは命まで掛けたいと思うほどグルメではナイし、どうしても牛肉となれば、オーストラリアか国産あたりにしたいし、本当は国産の方が良くても、値段が高いとなると偽装されて高い値で米国産を食べさせられたらかなわないなと思ってしまうので、我が家はマスマス豚肉への傾斜が高まるんだろうなと思います。

豚は、一般的な食用の肉の中では、人間と似ているトコが多いらしいので、それだけでもウェルカムだったりするので‥‥

それにしても、米国の牛肉は大丈夫ですとパフォーマンスする政治家はいませんね‥‥偽装さえなかったら、国産の方がチェックが厳しいので安全だとは思いますが、ともあれ様々な食べ物が全て安全とは言えない時代になったコトこそが、怖いと思うのですが‥‥  
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馬鹿馬鹿しくて話にナラナイ

おそようございます。のんびり起きて、久々に朝のワイドショーをのんびり眺めていると、こんなに飲酒運転が問題化されているのに、全国一斉取締りの初日に定年を来年春に控えた警察官が飲酒運転で出勤だの、ネットでも話題になっていますが、竹中大臣が大臣の辞任と同時に国会議員を辞めるだのという話で盛り上がっています。

後者の話題は、ネットでは、ある週刊誌が大臣の疑惑を追及するからとも言われていますが、それにしても、まだ前の選挙の仕組みだったなら、本人が辞めたいと言えば、その本人が辞め、それなりに投票を集めた人が次点から繰り上げられるワケですが、特定の政党の名簿順位に従って、そのまま繰り上げられるなんて仕組みはどこかがオカシイとしか思えません。

悪いコトをして捕まろうが、死去しようが、全く一緒というのは変じゃないですか?

常識的な感覚とすれば、犯罪に絡む様な人を推薦した政党の道義的責任があるので、他党にその議席を回すとかいうのが普通だと思うのですが、こんなコトをしていれば、一時的に有名な人に名前を借りて、当選したら用済みというコトになりかねません。

無論、今回が犯罪に絡むとか言ってるワケではありませんが、前に大橋巨泉さんの辞任の時も思いましたが、来年の参議院選挙の対策として、プロ野球の新庄選手の名前が取り沙汰されたりしていますし、厳粛なハズの政治が人気投票化されすぎている様な気がします。

名前が有名なだけで、何をするかも判らぬまま、タダ、票を獲得する様な今の仕組みで、世の中がヨクなるとは全く思えません。

政治がショー化し、見栄えとかが一番の問題になっている昨今、それの一番の見本みたいなモノですね。

初めての女子プロレスラーの国会議員とかで、マタ、大盛り上がりすると思いますが、そうやって政治が身近になるというよりも、大衆政治ならまだしも、愚衆政治になってしまっては困ります。

金融大恐慌の後に、第二次世界大戦があったように、貧しい人々が増大すると、美辞麗句を述べるヒットラーの様な独裁者が好まれる時代になりやすくなります。

大風呂敷を語る人々と同化して、世の中の暗黒部分から目をそらしても、暗黒部分はドコへも消えて無くなりません。

イヤなコトは直視して、大胆にウミを出すしかナイのです。年金が近い将来破綻するんじゃないかと思っている人々の数が、6割近くになっているコトを思うと、最早、そんなに悠長にしている時間は残されてナイと思うのですが‥‥  
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2006年09月17日

今日はお休み‥‥

久々の連休。暑さと涼しさが、メチャクチャになっている天気なので、体調を崩される方々が多いらしく、先週は忙しい日々が続いたので、今日は本をしっかり読むコトもナク、のんびりしてました。

それでも、午後になって、息子もヒマでゴロゴロしてたので、イイ若い者がまったりばかりしてても何だからと、主人にお出掛けに連れ出して貰いました。娘はカワイソウだけど、あさって試験なので、主人の母とお留守番。

高校の母校があった隣の市の須坂動物園に行きました。カンガルーのハッチで、全国的に話題になっていますが、最近は同じ場所にある臥竜公園に花見と菊花展には大体毎年行ってはいても、子供達が保育園から小学校低学年の時にかなり行きまくってたので、御無沙汰してました。ちなみに、あんなに行ってたのに、息子はあんまり覚えてナイと言ってるので、丁度いいかと思って‥‥

連休だったり、今日はポニーに乗せてくれたりする日だったかららしく、とってもにぎわってました。久々に行くと、動物もかなり大きくなっているのもいれば、老衰で死んだので今はカラです‥‥みたいなトコもあって、時間が流れたのだな〜と思いました。

ちなみにクララというお嫁さんが来たハッチのトコは、かなり混雑してました。昔は、カンガルーのトコなんて、そんなに混んでなかったのに‥‥となりのペンギンや、くじゃくなんかの方が人気者だったハズ。山に沿って作られているので、駐車場から登って行って、降りて来ないと車に戻れないのですが、行きはまだ暑かったので二匹ともゴロゴロ寝てました。帰りは涼しくなったので、ハッチは足で土を掘ったりしてました。クララのお腹は少しふっくらしていて、やっぱり子供がいるんだなと思いました。そのタメか、二匹ともそんなに仲良くしている様子もなかったのですが、それでも、一匹だった時よりは、シアワセそうな感じでした。

ポニーの乗馬時間は終わっていて、小学生までしか乗れなかったので別にどうでもヨカッタのですが、昔、何とか小さいのに乗せて貰った息子が、大人と変わらなくなりつつあるように、ポニーも立派な体格になっていて、時間の移り変わりを感じました。

ちなみに、水族館が出来たばかりの時、甥を連れて行ったら、メダカなみの魚ばっかりだったのに、約二十年で水族館らしくなっています。大山椒魚も本当に大きくなっていて、見応え充分でした。

動物園から出て来て、臥竜池の周りを歩いていたら、ボートを漕いでいるのを見て、息子が「僕が漕ぐから乗ろう!!」と言うので行ったら、営業時間は終わりで、新しく乗るコトは出来ませんでした。マタ、今度というコトになりましたが、小さかった息子がそんなコトを言う様になったかと思うと感慨無量でした。

子育ては大変なコトもありますが、小さかった甥も立派な社会人になったし、手が掛かる子供だった息子も、それなりに大人に近付いているコトを思うと、大変な時期は人生の内でそんなに長い時間ではナク、大変だった時も含めて、居てくれてヨカッタと思うコトがイッパイです。

「案ずるより産むが易し」とはヨク言ったもので、子供が居るコトの喜びを改めて認識しました。  
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ピーマンで若返り!!

おはようございます。実は大好きなんですよねピーマン。結構、キライな方が多いみたいなのですが‥‥ワタシの姉もそんなに好き嫌いのナイ人ですが、嫌いです。もしかしたら、ワタシを好きにさせて、食べさせてたの(?)かもしれないなんて思います。(笑)

定番、「日本農業新聞」の「アンドユー」のやさい図鑑からです。

ピーマンにはビタミンCが豊富に含まれていて、なんとピーマンからビタミンCが発見されたのだそうです。全然、知りませんでした。

熱に弱いビタミンC。でも、ピーマンでは加熱しても壊れにくいとか、魅力です。

しみのもとになるメラニンが生まれるのを防いだり、肌の健康を保ったりする働きがあり、カラフルなピーマンにより多く含まれるとか。

パプリカ(赤、黄色)のビタミンC含有量は、レモンよりも多い。肌荒れの強い味方です。

老化の原因、活性酸素を取り除くカロテンが多く、完熟した赤ピーマンは緑の3倍近く。赤い色素カプサンチンは、カロテンよりさらに抗酸化力が強い。

油とよく合い、炒めることで青くささを消し、カロテンの吸収率を上げる。

タダ、青くささのもと、ピラジンは、血の固まりを防ぎ、血栓や心筋梗塞の予防が期待されている物質。

面倒な人は、そのままレンジでチンしてから、水でサッと洗って種を取り、食べやすい大きさに切って、醤油をかけただけで、充分美味しく食べられます。手軽な一品になりますので、忙しい方もお試しください。  
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2006年09月16日

習慣は自分で作る

今朝の本からです。

人間というものは自分の運命は自分で作っていけるものだということをなかなか悟らないものである」。これはフランスの心理学者でもあり哲学者でもあったアンリ・ベルグソンの言葉です。「運命」を「習慣」や「性格」、あるいは「健康」に置き換えて、自分の中にある言い訳やあきらめに向き合ってみてください。もちろん、長らく身についた悪い習慣、性格、健康状態を変えるのは容易ではありません。しかし、「やめなければならない」と何回も自分で重い言葉を繰り返さないで、やめられた時の達成感や、やめて身につく良い習慣や性格など、さわやかな自分を描いてみて下さい。

自分自身の人生は、将来は、自分で選び作り上げるもので、初めから決まった運命などない、ということを強調しておきましょう。本気で変えたいと思えば、人は自分の習慣や人生を変えられるのです。

鳥は飛び方を変えることはできない。
動物は、這い方、走り方を変えることはできない。
新しい習慣の選択を人間は決意できる。
それにより、人間は生き方を変えることができる。
繰り返す毎日の行動を変えることにより、新しい習慣形式ができあがる。
人間には選択の自由がある。
そして、自分の意思と自分の努力により、新しい自己を形成することができる。
それが、人間と動物とを根本的に区別するものといえよう。

老いてマスマス盛んと言う言葉がありますが、どうせ生きるなら前向きに生きたいものです。  
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あるがまま行く

おはようございます。『秋だなぁ〜』と思います。そろそろ、夏物を片付けないといけない時期になり‥‥連休といえども、雑用が山積みです。

さて、ドクターで長寿な日野原重明さんの本です。1911年生まれで未だに達者というのは、スゴイことです。何回か書き込みしたかと思いますが、ワタシが整体する最高齢の方は、91歳です。本人もおっしゃってらっしゃいますが、確かに、忘れっぽくなっていて、前に聞いた御話を何度も聞かされるコトもありますが、ともあれ、長寿を続ける方の御話というか、生き方には、遺伝とかもあるとは思いますが、やはり見習うべきトコが多々あると常々思っていたので、読んで見ました。
あるがまま行く
題名にも惹かれましたし、話題になった『生き方上手』は活字がとても大きかったので‥‥とりあえずコレです。

読んでみると、本当に淡々と人生について語ってらっしゃるので、『う〜ん』と思ったりします。

例えば一番最初の「人間が生まれることの根源的意味」なんてタイトルの付け方は、それ自体スゴイとすら思ってしまいます。

出生率の低下を説いてらっしゃるのですが、現在の出生率低下の最大の原因は、「自分の子供を渇望しない人が増えているコト」単純ですが、それに尽きると思っているワタシには、なるほどと思う話でした。

昔、教科書で読んだ記憶があるのですが、リンドバーグ夫人の『海からの贈り物』について書かれていました。それこそ、アン・モロウ・リンドバーグというお名前なんだと初めて知りましたし、それこそ、ちゃんと最初から最後まで読まないといけないと思ったりもしました‥‥

この章を締めくくる言葉は、

人間はなぜ生まれたのかと問い、なぜ私はこんなにも不幸なのかなどと訴える時、そこからは何もポジティブな答えは返ってこないのです。この世に生まれて、今日ある自分を実感したならば、与えられた命をどう育てるのか、宿題を与えられたと考えてはどうでしょうか。自己をどのように作り上げ、永久の眠りにつくその時、生まれてきたことに対してどう感謝して死ねるのでしょうか。

う〜ん、深すぎて論評出来ません。  
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2006年09月15日

死に臨む言葉

辞世の言葉を集めた本があるとは、全然知りませんでした。図書館で見つけたので、これは今朝の話の続きとしてイイかなと思って借りて来ました。講談社から出ていて、赤瀬川原平監修の「辞世のことば 生きかたの結晶」という本です。

日本は、霊的にとか言っても、そんなに宗教にはまっている人ばかりではないし、様々な宗教もあり、生まれながらに親から無理やり宗教に入れられるという人は滅多に居ないので、こんな感じの様々な人の死に臨む言葉を読むのも、それなりに自分に合った言葉や思想を見付けられる手助けになるかもしれません。

ちなみに今までも大好きだった一句と言えば、在原業平の「ついに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思わざりしを」ですね。人間臭くて大好きです。こんな感じで最後まで、飄々と生きていけたらイイですね。

和泉式部のように、六十歳近くなっても「あらざらんこの世のほかの思い出に今ひとたびのあうこともがな」なんて執着がある人もスゴイと思いますが、ワタシには少々無理かと‥‥

やっぱり親鸞や一遍のような傑物は‥‥と思うのは、「それがし、閉眼せば、賀茂川に入れて魚に与うべし」とか、「わが門弟子におきては、葬式の儀式をととのうべからず。野に捨て獣にほどこすべし」とまで、言い切ってしまうトコ。

ともあれ、無能とまで呼ばれ、応仁の乱をひきおこし、それでも銀閣寺を建てたコトで後世まで名を残した足利義政が、「何ごとも夢まぼろしと思い知る身にはうれいもよろこびもなし」と詠んだのには、感慨深いものがありますね。

吉田兼好みたいに「人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」というように、死は逃れがたいものなのだから、生きてあることの不思議さ、ありがたさに目を向けて、生の楽しみをあじわいものです。

そして、連歌の祖とされる山崎宗鑑みたいに、「宗鑑はいずくへ行くと人問わばちとようありてあの世へといえ」といった感じで、ちょっと用があってあの世へ行きましたなんて、スゥーツとこの世と別れられたらイイとワタシは思っています。

ともあれ、時にはそんな言葉の数々を読むことも、ナカナカ勉強になります。  
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サイモントン療法

仕事をしてまして、午前の更新が遅くなりました。

昨日の本から、「がんを治す療法」という部分を一般的に変えて書き込みます。

喜び・生きがいのワーク‥‥喜びを少なくとも五つは見つけましょうというセッションです。海を見ていると嬉しい、家族との時間が喜びなど、どんなことでもいいから喜びを探しましょう。

ビリーフワーク‥‥信念・思い込みを書き換えましょう。喜びのリストアップが出来たとしても、それを行動で示そうとすると大きな壁が存在するように思える場合、それは否定的な感情が邪魔しているからです。
否定的な感情の原因となる思い込みを紙の左側に書き、右側に思い込みを解除する書き込みをしましょう。
例えば、「病気は治らないかもしれない」と左に書いたら、「治らないとは限らない。元気になる可能性はある。もし、万が一死んだとしても私の魂は永遠だ」みたいな感じで。
そして、このかみは絶えず身につけていて、マイナス感情が起きたときには、見たり、書き足したりするのです。書き換えを読むことで、思い込みは解除していきます。
日常生活の中で、常に繰り返し、癖にすることで、思い込みは自然に解消され、本当に自分がやりたいことに、なんの不安もなく踏み込めるようになります。

イメージワーク‥‥画用紙に、「自分自身」「自然治癒力」「治療」などをそれぞれ絵にします。絵で視覚化すると、それまでボンヤリしていたものが、はっきり形をもって認識できます。思い込みを絵にしてみることで、上のビリーフワークがしやすくなることもあります。否定的な感情は書き換えることが大切です。

ストレスパターンと病気の恩恵‥‥過去一年半から二年の間に、自分に起こったことを、良かったことも悪かったことも分け隔てなく書き出します。病気になったということは、そうした変化にうまく対応できなかった自分があったはずです。それを分析し、ストレスパターンを見つけます。
「病気」になった恩恵を考えてみましょう。ハードだった仕事からの解放、睡眠時間が増えた、家族の思いやりが深まった、自然の美しさに感動できるようになったり‥‥どんなに大変なコトでも、冷静にかえりみれば、何か恩恵はあるはずです。そこに目を向けることです。

希望・信頼・内なる叡智、スピリチュアリティ‥‥自分を超えた力、苦しい時の神頼みでもいいですから、自分の力で頑張って生きている自分(自力)と、何ものかに生かされている自分(他力)の間のギャップを埋め、頑張ればすべてうまくいくという幻想から抜け出し、努力しているのにという無力感から解放されましょう。

死生観‥‥「死」は重要なテーマです。どうしても目をそらしたくなるかもしれませんが、しっかり見つめることで「生」の輝きも生まれます。死んで魂が抜けて光に包まれて天に昇っていくというようなイメージで、難病により迫り来る死への恐怖を捨て去りましょう。

病気を克服するためには、難局を必ず乗り切って、絶対に生き抜いてみせるぞという強い意志と、時によってはいつでも死ねるという気持ちを持って、「生」への気持ちが執着となって、逆効果にならないように心掛けるべきなのです。  
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2006年09月14日

連続殺人事件の真実

今朝の続きの様な話になりますが、昔だって、イジメはありました。そして、それが大事件になったコトもあったのだと、全く関係のナイ本を読んで判りました。
ホリスティック・カウンセリング―心を癒して体を治す
という本を読んでいたら、三十年ほど前の群馬県で起きた連続殺人事件の犯人の大久保清についての記述がありました。

社会中が大騒ぎしていた事件だったので覚えていますが、その当時もマスコミは、どんなに猟奇的な事件だったかというコトにばかりスポットを当てていたように記憶しています。

彼は逮捕されてからも絶対に自白しないと頑張っていたそうです。しかし、彼を担当したある刑事が彼の人間的なところに焦点を当てて話を聞いたとき、大久保は突如として慟哭し、すべてを自白したというのです。

彼の祖母はロシア系の芸者でした。また、父親は俗に言う女癖の悪いことでは隣近所に知られており、当然、家族も大変困っていたといいます。そのようなことがあって、大久保は学校ではその人の子供であるという理由でいじめられていたようです。彼は殺人以前のある犯罪で留置場に入れられていたのですが、これからの改心を誓い、それが認められ出所しました。しかし、家族は彼に冷たく接したのです。そのような事情から彼の犯罪が発展していったようです。

彼は殺人というイメージに反して、詩を作ったり哲学書を読んだりしていたのですが、しかしその中にも幼児性があったと言われています。人を殺害しておきながらも、何がしか自分の人生を捜し求めていたのかもしれません。

復讐としての大量殺人事件が再び繰り返されないで済むタメに、我々は何をすればイイのでしょう?

圧迫されている子供達をマスマス追い詰めるのか、それとも優しく包むのか、どちらが良いのかは、考えるまでもナイことだとワタシは思うのですが‥‥
  
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小学生は大変!!

おはようございます。本日のタイトルは、小学生自身が大変な時代になったという意味です。だから、その後の中高生も大変という意味で、無論、それを取り巻く親や先生も大変ではあるのですが‥‥

公立小学校の児童が05年度に起こした校内暴力は2018件(前年度比6.8%増)で3年連続で増加し、過去最多となったことが、文部科学省の「生徒指導上の諸問題の現状」の調査で分かった。このうち、児童が言動を注意され逆上して足をけるなど、教師への暴力は過去最多の464件で、前年度比38.1%増と急増ぶりが目立った。

 05年度の小中高生全体の校内暴力件数は3万283件(0.86%増)で、そのうち中学生は2万3115件(0.02%増)、高校生は5150件(2.5%増)。

 また、小5の男児1人が器物損壊で10日間の出席停止となった。問題行動を繰り返す児童生徒がいる場合、他の子どもの学習権を保障するため市町村教委が保護者に命じる制度で、出席停止の用件を明確化するなど適用しやすくした学校教育法改正(02年1月施行)以来、小学生では初めて。(毎日新聞ネットニュースより)

文部省は五月、米国流の「ゼロ・トレランス(非寛容)」という指導法を紹介する手引を全国の学校に配布。学校ごとに明確なルールを定め、小さな違反も見逃さない一貫した対応が非行防止に効果があると強調した。(本日付け「信濃毎日新聞」第一社会面より)

そもそも、何度も過去ログで述べている様に、子供に対する過剰な期待や虐待がある限り、異分子排除の文部省の論理で上手くいくハズはありません。

米国の真似をしていたらOKになるならば、米国の学校で銃の乱射など起こらないワケで‥‥

甥の同級生に、とってもスキーが上手で、シーズンになると学校を休んで大会に出場し、夏場はスイミングに通って体を鍛え、勉強もソコソコ出来るらしいのですが、時々「死んでやる〜」と言っては、教室を飛び出して行方不明になるコトを、低学年から続けていて現在四年生になる子がいると兄嫁から聞きました。

圧迫されている気持ちを自分に向けているか、他者に向けているかだけの違いでしょう。

往々にして、親の前ではイイ子だったりするので、学校で発散して、でもそれでバランスを取って生きている彼等を、学校から締め出して終わりにしても、社会には存在し続けるのです。義務教育の時にしか差し伸べられない手もあるのですから、校内暴力を肯定はできませんが、何故暴力を振るわなくてはいけないのかという背後の問題を無視して、小手先だけで暴力を封じ込めようとしても無理です。

それに外部に問題をオープンにするトコばかりではないでしょうから、上の数字は氷山の一角に過ぎないハズです。にも係わらず、こんなに増加しているのですから、実数はもっとだと考えて間違いありません。

「北風と太陽」の話にもある様に、凍て付いた子供達の心を溶かすのは、愛情しかナイでしょう。

昔だって、イジメやケンカはあったけど、そんなに大騒ぎにはならなかったのは何故だったのか、そちらの方の分析をした方が余程効果があるのではないかと思います。  
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2006年09月13日

シアワセのかたち‥‥

今朝に引き続き、真保裕一さんの作品です。あまりに面白くて一気読みしてしまいました。
誘拐の果実
半分推理は合ってたのですが、結末に大どんでん返しが幾つもあり‥‥参りましたという感じです。

今朝、少し書いていたマスコミの方々も手玉に取られていて、実に痛快なミステリーです。

伏線が至るところに張られていて、とっても感心してしまいます。

ミステリーはネタバレしては、ちっとも面白くナイので、ホトンド書き込めないのがとってもツライのですが‥‥この著者の本を今まで読んだ中では、最高かと思います。これから、もっとスゴイのに出会えるかもしれませんが‥‥

ともあれ、上流階級も楽じゃないとか、様々なコトを思わせてくれる小説です。

何となく、疲れていた気持ちが全部綺麗に吹っ飛んで、心の中が軽くなりました。

随所にスカッとする様な、チクチクとした社会への批判のメッセージも快いですし‥‥

再生への物語も、ベタかもしれませんが、読後感がとってもイイので、沈んだ気持ちを晴れさせるには最高です。  
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異質な人を排除しようとする社会

おはようございます。実名報道した新聞や雑誌を図書館が閲覧させなかったり、しにくくしているのは、「言論の自由」の侵害なのかどうかの議論がありますが、一個人の顔や名前を知るコトがそんなに「言論の自由」という大義名文を与えられるモノであるならば、是非ともその矛先を『権力者』に向けて頂きたいというのが、大半の方々の感想ではナイでしょうか?

法律に問題があると思うならば、法律を改正する様にすればイイのであって、マスコミという権力を楯に勝手に法律を解釈し過ぎるのは、いかがなモノかと思います。

社会に再び出るコトもあるのだから、というのであれば結審して有罪が確定してから、しっかり実名と顔写真を出して報道した方が、より社会に出る時期に近付いているハズなのに、何故しないのでしょう。

日本人は穢れと祓い、禊の精神に裏付けられた神道の国なので、犯罪者であろうと死んでしまえば神になれるのですという論を、膨大な死亡者を出した戦犯の方々にする人々が、個人で人を殺した人には、何故その論を展開しないのでしょう?

結局、権力者と権力を持たざる者との間には、ダブルスタンダードが存在するからです。
犯罪被害者のトラウマを見事に書き上げた小説です。

どう主人公が、トラウマを克服しようとするのかは、読んで頂くとして、この言葉だけを抜き書きしておきます。

望んでいた人生を手にできるのは、ほんのひと握りの恵まれた者たちだけなのだろう。でも、人は自分の歩幅で歩いていくしかない。

ほんのひと握りの恵まれた者たちだけが支配する世の中は、イビツでしかナイと思います。  
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2006年09月12日

弱者の声が握りつぶされる時代?

ちょっと一息入れて、全く違う話です。でも、もしかしたら共通しているのかもしれませんけどね‥‥
「朝日」ともあろうものが。
全国版の読者だと、朝日新聞や読売新聞は大手でしょうが、我々みたいに商売人の家に生まれ育ち、自分でも商売したりしていると特に「おくやみ」情報が目当て(と言っては失礼でしょうが)で、地方紙をどうしても採らざるを得ないので、そんなに「朝日新聞」を崇拝してないのですが、題名に釣られてかなり前に読みました。丁度、他の本の連載をしていたので、紹介せずに終わってましたが、心理学関係の本が少し続いたので、ココで書き込みしようと思います。

かなり前に書いたと思いますが、30歳のコロ、脚本のプロット書きの仕事の打ち合わせの話で、TVに於けるスポンサーのもの凄い力を知ってから、マスコミに対する期待はかなり落ちてましたが、この本を読むとエリートの人生を歩み続けた人々が書く新聞は、もしかすると、玉石混交ではあるものの、雑多でフィルターの掛からないインターネットがこのまま成長していったらどうなるのか、という不安を抱かせます。

若者の新聞離れは進んでいるみたいですし、広告費はネットの伸びと比べるとかなり大変な様子ですから、特ダネ主義にならなければならない実態は判るのですが、「特ダネ」も必要だが、「特オチ」を怖がってばかりいるというのを読むと、真の報道なんて、日本のドコにあるのだろうかと、絶望的な気持ちになります‥‥

大好きな横山秀夫さんも、地方紙の記者だったので、その小説の端々で色々と書いてらっしゃるので、『そんな状態なのだと初めて知った!!』という様な驚きはそんなにありませんが、『おそらくそうなんだろうな〜』というイメージだったものが、『やっぱり、そうだったんだ!!』と思います。しかし、想像であったものが、裏が取れたという意味では画期的なものなんだろうとは思いますが、正直、著者にはそんな過去を脱ぎ捨てて、今後どんなコトを書いてくれるのか、そっちの方が知りたい様な気がします。

その内に判る話を、少しでも早く他社に先駆けて書くよりも、豊富なデータベースを元に、じっくりとインターネットでは書けない様な連載モノを読みたいと思っている新聞の読者は多いはずです。そういうモノを大事にしてくれる様になってくれればイイのにと、全ての活字マスコミに期待します。

速報性は、TVやネットには敵わないのですから、深みや奥行きの探求をして欲しいというのが、新聞や雑誌に対するお願いです。

出来れば、弱者の声をしっかり拾って欲しいものですね。世の中には、ネットも出来ず、自分の声を社会に出せない人々だって大勢いるはずですから、そんな声を聞かせて欲しいと思います。お金の力にまかせた広告などは、もう既に十分聞いているので‥‥  
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ストレスと腸の関係

おはようございます。仕事してからなので、少々遅い更新になってます。

いよいよこの本も最後になるのですが、精神と肉体とは不可分にあるので、ストレスで便秘になる方も多い様です。

ちなみに、整体でお腹も刺激するのですが、何と言うかストレス一杯の方は、太ってるというよりも張っている感じの方が多く、男性の方々はそんなに正直におっしゃいませんが、女性の方々の中には、便秘で困っている方も大勢いらっしゃる様です。

前にも書きましたが、ワタシはどちらかというと腸が弱いので、ストレスに遭っても下痢してしまうタイプなのですが、今回の話は、便秘している子供への説明に関して行なわれてなるので、その点は承知の上でお読みください。

人間は、外界の「緊張状態」にいつでも即応しなければならない。そのため、内臓諸器官の中でも、特に袋状になった器官は、「外界」の異変を察知してすぐ反応する。それは、「闘争、逃走反応」といわれるもので、自分が逃げるか戦うために必要なエネルギーや血液を配分するためである。それは副腎皮質から分泌するアドレナリン、コーチゾン、ハイドロコーチゾンなどの適応ホルモンや肝臓から出るグリコーゲンなどの適応ホルモンや肝臓から出るグリコーゲンの分泌とも関連がある。緊急事態が起これば、腸の蠕動(ぜんどう)は止まり、消化活動を停止する。そのため腸内で老廃物は移動せず便秘になる。

通常の場合であれば、胃から移動した栄養物は、消化、吸収されながら、十二指腸、空腸、結腸、大腸、直腸へと八メートル余の腸管内を移動し、肛門から老廃物となって体外に排泄される。

しかし、ストレスにさらされると、外敵(内臓は〈敵〉と認識する)との戦いのため、体内の内臓諸器官の活動は停止する。だから排便という現象も停止する。

のだそうです。皆様も、スッキリしない様なコトがある場合には、ストレスが溜まっているのだと気付いて、リラックスを心掛けてくださいね。往々にして、疲れ過ぎている人ホド、自分の疲れを認識してらっしゃらない人が多く、「そんなに仕事しているワケではナイのだけれど」式の御話をされます。

オーバーワークは自覚するコトが一番大事です。突然死しないタメにも‥‥
  
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2006年09月11日

絶対的に、無条件に‥‥

さて、子供に対する親の愛情ですが、その大前提にあるべきなのは、「無条件」であったり、「絶対的」であることが大切なのだそうです。

「勉強すれば」「言うことを聞けば」「行儀がよければ」可愛いがる、というのであれば、それは無条件の愛ではない。無条件の愛というのは、勉強しなくても、言うことを聞かなくても、極端なことをいえば、たとえ子どもが罪を犯しても、「罪を犯そうがどうしようが、お前を拒否することはないよ。お母さんにとってはお前が大切なの」という愛なのである。

「絶対」というのは、人間はその人一人だけ、地球上同じ人間はいない、という「絶対的な存在」という意味である。障害を持って生まれてくる子もあれば、知能の低い子もいる。しかし、すべて人間は「かけ代えがない」。人間は絶対的な存在だから、「比較のしようがない」ということである。

心配しなくても、子どもは親の無条件、絶対の愛を与えられっぱなしということはなく、必ず「お返し」を考える。

それは、親が人生で最も大切だと思っている事柄である。親には親の価値観があり、日常生活でそれを大切にして生きていることを察知して、口で言わなくても、親の価値観に沿った期待通りの行動をしてくれる。

無論、それを期待して、心にもナイのに愛したフリをしていては、ダメなコトは言うまでもありません。

ともあれ、そんな風に子供を大事にしてくれる親ばかりとは限らないのですが‥‥

人間の偉さは、生まれや育ちではありません。すべて人は平等ではありません。不幸な境遇に生まれた人もいれば、幸せな育ち方をした恵まれた人もいます。しかし、そのような中で『人間の偉さ』とは、万人一律ではない。人間の偉さとはこの不平等な社会の中で、その人がどのように生き、『自己実現』していくのか、その程度によって計られると思うのです。

と‥‥、おっしゃる通りなのだと思います。  
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必要なのは愛情

おはようございます。昨夜の本も、母親の「学業こそ全て」という考え方が一番の問題だったかと思いますが、中学2年生の女の子が、母親に殺されたというニュースを聞いて、「エッ!!」と思うよりも、「あぁ、マタか‥‥」と思ってしまうホド、感覚がマヒして来ているコトの方が怖かったりします。
児童虐待の心理治療―必要なのは「しつけ」より愛情
この著者の本は、前に紹介したハズです。その時も、なるほどと思いましたが、児童虐待とかに関係なくとも、児童虐待のケースの治療プロセスなんかを読むと、「そうか‥‥」と思います。

心配性の親の話なんか読むと、親とか親戚とかに心配性な人もいるので、ワタシも病的ではナイのですが、ある程度その気持ちも判ったり、それをうっとおしく思う気持ちも判ったり。

ともあれ、手洗いは強迫神経症の人の様に何度もしたりしませんが、食べ物を素手で触る時は、必ず手を洗うというクセがついていますし、少し手抜きしただけでスグに下痢してしまうホドの変に弱い内臓を思うと、それを今更改めるワケにもいかず‥‥お祭りの夜店で食べ物を買って食べるのは「まかりならん!!」と言われてましたし、実際、小学生のコロ、今でいう賞味期限の切れていたであろうパンを普通の小売店で購入して食べたくらいで、ヒドイ下痢してましたからね‥‥

子供には、なるべくアバウトにして、当然泥だらけの時は手を洗う様に言いましたが、そんなにウルサク言わなかったので、主人の方の丈夫さが影響しているのかもしれませんが、ワタシの様に腸が弱くナクて、安心してます。ワイルドに育って貰わないと、イザという時に困りますからね。必ずしも、食料事情が万全な今のママとは限らないのでって、それも心配し過ぎかもしれませんけど‥‥

ともあれ、そんな感じの話を読んでいると、ケッコウ頷けます。別に、お医者さんやカウセリングをして貰うほど困っているワケではないけど‥‥という方々に、一読されるコトをオススメします。「読むカウンセリング」といった感じでしょうか。

ボケてしまった叔父のコトで、実に名医とヘボでは大きな違いだと実感しました。患者との相性もあるのかもしれませんが、一緒に連れて行ったイトコの話だと、叔父の話をホトンド聞かずに投薬された御蔭で、親戚中を巻き込んで上に下にの大騒ぎをされた上、別の入院施設のある病院に入院までしなくてはイケナクなったのに、今や退院してそれなりに暮らしていて、迷惑を掛けたコトだけはスッカリ記憶から抜け落ちているという目に遭わされると、やっぱりドクターは選ぶべきだし、下手なカウンセリングを受けるくらいなら、本でも読んでスッキリした方がマシかも‥‥なんて思います。  
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2006年09月10日

格差社会の現実‥‥

久々に小説の話です。何冊も読んではいたのですが、「コレ!!」という本が無かったので、お休みしてました。
手紙
父親は過労から仕事中に居眠り運転して死亡、残った母親は過労死、二人の兄弟の哀しい物語です。

殺人事件の被害者も加害者も、そして双方の家族もとても大変です。

ワタシの大学時代の友人も殺されました。その晩に共通の友人から連絡が来て、翌日顔写真入りで新聞にデカデカと載りました。遠方だったので、日程が合わず、葬式に行けませんでした。葬儀の様子は、ワイドショーでやったみたいですが、ワタシはその日は一切、彼女の事件が取り上げられそうなのはパスしてました。

当時は、ニュースがワイドショー化してなかったので、それで済みましたが、今なら、しばらくTVを見ずに過ごすしかナイでしょうね。ともかく、犯人は精神病院に再入院しようとしていた弟だったので、沈静化も早かったのだろうと思いますが‥‥半年後位に、家にお邪魔してお焼香させて貰い、気落ちした両親にお会いしました。それから、一年後くらいに、母親が自殺したとの話を聞きました。

彼女の場合は、格差社会とは無関係で、受験戦争の犠牲者だったのですが、それにしても、人間は切羽詰ると何をするか判らない存在です。

衣食足りて礼節を知る」と言いますが、本当の弱者に手を差し伸べ、全ての人が自立する社会を目指さないと、社会は崩壊してしまうと思います。

何があろうと、「自分で諦めなければ、何とか生きていける」。そんなコトを読後に思わせてくれる小説です。

それにしても、被害者・加害者の肉親を巻き込んだプライバシーの侵害と、過剰報道は何とかならないのでしょうか?

「疑わしきは被告人の利益に」「結審するまでは被告人は無罪」という原則は何処かへ消えて、何故犯罪を犯したのかが明らかになった裁判の後の報道は地味ですよね。本当は、裁判の結審の後に事件の総括をすることこそが、事件の発生の抑止になるハズなのに、事件を野次馬的に煽り立てるような特ダネ報道の横行は、社会不安を増幅するコトはあっても、社会を良くする方向へは導かないと思うのですが‥‥  
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夏の疲れ、そして長寿まで?

おはようございます。久々、日曜朝に「食べ物が作る健康」になりました。

本日は、何時もの「日本農業新聞」の「アンドユー」の「くだもの図鑑」と超ローカル新聞の「週刊長野」との合作です。二紙が揃って、昨日「ブドウ」の特集してました。それだけ旬の食べ物というコトかもしれませんね。

果物の中でも甘味の強い方に分類され、その主成分はブドウ糖と果糖。共に吸収されやすく、効率よくエネルギー変換され、疲労回復に即効がある。特に血液中のブドウ糖のみをエネルギー源にする脳細胞の疲労回復には最適。

カリウムを豊富に含み、ナトリウムを排せつして高血圧を予防する働きも。ビタミンB1・C・E、カルシウム、鉄、亜鉛も含まれている。

赤いブドウの皮色素のアントシアニンには、強い抗酸化機能があり、注目されている。

レスベラトロールもポリフェノールの一種で皮に含まれる。

カテキン類は、果物の中ではアンズ、サクランボについで3番目に多い。

いずれの成分も細胞が活性酸素によって傷つけられることを防ぐ作用(抗酸化作用)があり、動脈硬化や心臓病、がんなどの生活習慣病の予防に有効であると、数々の研究で明らかになっている。

レスベラトロールには、寿命を延ばす酵素を活性化させる働きがあると米国の大学の研究チームが発表。

果実を濃縮した干しぶどうは、ミネラル類やビタミン類、食物繊維を大量に含む高栄養食品。

これは食べなくちゃと思わせてくれる特集記事ですね!!  
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2006年09月09日

科学とモラル

今日は、気温が久々に34℃まで上がったので、とても疲れました‥‥では、続きです。

科学は、どうして夢や欲望をもつかを、生物学や化学の立場から説明することはできる。将来は、視床下部や大脳皮質を都合のいいように刺激して、好きなときに夢や欲望を製造することができるようになるかもしれない。

しかし、宗教やモラルや芸術は科学の範疇とは別のところに属している。科学はこのようなものも支配していると考えるのはナンセンスだ。われわれが毎日活動し、ものを創り、仕事をするのは、欲望や夢や価値観に押されるからである。

科学には、何が善で何が悪か、何に意義があって何にはないかを示すことはできない。現象を観察してそれを支配する法則を見つけることはできるが、善悪をきめることはできない。

経済界で起こることがまさにそれで、そこでだれもがしていることは、経済的利益を最大限に退きだすことだ。生物界でも同じで、環境にもっとも適するものが生きのびる。

自然は善悪や苦痛や正不正には無頓着である。しかし人間は、自然のなかで生物学の法則に従って生きながら、それとは別の領域にも目を向ける。ものごとの価値や正義や善意や平和について考え、理想的な世界を夢見るのだ。

カール・シュミットは、政治は戦争と同じで、見方と敵を分けることから成り立っていると説いた。戦争と同じように、倫理的判断は客観的に公正にされるのではなく、方便の一種として使われるのだ。味方はつねに勇敢で私欲がなく寛大である。ところが敵は貪欲で凶暴で非人間的で残酷なのだ。

われわれはふつう、ライバルに愛される人でも尊敬できる。ところが政界ではそうではない。

真の客観性は、そんなわけで、科学やモラルにはあっても、政治にはない。味方の恥ずべき行為に目をつぶらず、敵の善行に敬意を払うことは、少数の人だけが長年の鍛錬の末に身につけた資質なのだ。精神を磨いたたまものなのだ。

是非とも、皆様にはその少数になって頂きたいとワタシは思います‥‥  
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安物にならないタメに

おはようございます。本日、これから忙しくなりますので、アワテテ書いてます。

マダ、同じ本の続きです。

われわれは、日々の暮らしはかぎりなくよんなるとかたく信じている。たしかに自動車は速くなったし、携帯電話はどんどん小型化しているし、外国旅行もますますさかんになっている。食生活も信じられないほど豊かになった。

むかしは近づきがたい存在だったテレビやコンピューターも、いまではだれもがもっている。そのうえ競争がはげしいから価格は落ちるばかりである。

しかしわたしは、あるものやサービスが安くなったことを知ると、ほとんどいつも心配になる。なぜならそんなときは、その分だけ質のほうも悪くなっていることが多いからだ。

質の低下は輸送手段も冷蔵方法も改良されている生鮮食料品にも起こっている。早すぎる収穫、産地からの遠すぎる距離、人工的な栽培、それに殺虫剤や保存剤のために、作物に害が多く、そのうえ風味がない。

パッケージ用品のおおかたもそうだ。価格を抑えるために、多くの企業が包装ばかり立派にして、中身の量を減らしている。ときには質まで下げている。薬業界のように、効力のある成分の量を少なくして、薬剤の形態まで変えてしまうところもある。

最新のテクノロジーが生みだした製品についても同じようなことがいえる。たとえばコンピューターは早く買い換えるようにできている。

こんなわけで、製品の価格は下がっても、使うお金はふえてしまう。

大いなる進歩は、口に出せない深いむなしさと居心地の悪さを生んでいるのだ。われわれはよくないとは知りながらそれに目をつぶり、広告や宣伝に踊らされるままになっている。コマーシャルは、市場に最近登場した商品を買えばどんなに得をするかを飽きずに吹き込む。しかし周囲をもう少し注意深く見わたして、あと少しだけ批判力をつけただけで、われわれが向かっているのは夢の国ではないことが、たちまちわかるにちがいない。

人間まで、安物にならないように、お互い注意をして参りましょう。  
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2006年09月08日

熱情とは‥‥

昨日、一昨日と、一月ぶりの雨で涼しくなったのに、今日は暑さが戻って来て、とても疲れました‥‥

熱情とは並はずれたエネルギーで、激情で、信念なのだ。それはわれわれを、高きにあるもの、価値あるもののほうへ押しあげる力だ。日常生活を飛びこえて、ふだんの自分の向こうにあるものへ導く潜在的な資質だ。未来への跳躍であり、自分の目標や可能性を信じることだ。熱情とは希望が噴きだすことなのだ。

熱情は他人を納得させるためには欠かせない。しっかりした自信があって、他人を仲間に入れたいプランについて確信をもっていなければ、話を聞いてもらうための興味や信頼感を、どうして相手の中に植えつけることができようか。

しかし注意してほしいのは、仕事や使命など自分が果たそうとすることを、本気で信じていなければならないということだ。利害をはかりにかけていたのでは熱情は伝わらない。

芝居がかった大げさなしかけをしたり、策略や誇大な宣伝を使ったりして、他人の気を引き夢中にさせる人もいる。その人が心底誠意をもっていて、モラルのうえでも申し分なく、自分の言うことを確信して目標をめざそうとしているなら、それでもおおいにけっこうだ。

リーダーが人をあざむき操りペテンにかけるような人物だと、その周囲に集まるのは、しまいには自分の意思ももたない従順なシンパだけになる。そういう人々は、憎悪や粗暴な感情をかきたてると狂信的になる。一方には善だけを見、他方には悪だけを見るそういう人々が勝利を占めると、社会が不寛容で全体主義的になる。疑惑と独善がはびこり、市民の半分があとの半分の行動に目を光らせる社会になる。この種の陰惨な社会では、年月とともに熱情も信頼感も希望もすべて消え失せ、残るのは精神の荒廃だけになる。

という社会に、近付いてないとイイのですけど‥‥  
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窮地に陥った時に

おはようございます。仕事が終わってですので、何時もより遅い更新です。

人間は時として、八方塞りの様な状況になるコトがあります。そんな時はどうしたらいいのか。という話です。

そんなときには、思考を閉じこめている檻を飛びだし、世界とはいま目の前に見えているままなのだとは思わず、これまで知らなかった、考えてもみなかった可能性がほかにあるのだと考えるのだ。それから頭をめぐらし、工夫し、想を練る。

そして、ものごとを運ぶには、少なくとも五つの力を育てる必要があるそうです。

過去はかならずしも執着しなければならないものではなく、調整し直さなければならないものだと、本気で認める力‥‥生き方も考え方も一新すればいいのだと思うことだ。これはとてもむずかしいし、苦痛でもある。どうしようもないことに気がついたら、土地も故郷も捨ててよその土地へ移り、新しい仕事を探すことすら必要になるかもしれない。

人生や将来にたいするポジティブな姿勢を育てる力‥‥自分の能力や活力から何かを吸いあげることができるはずだと信じるのだ。これもたやすいことではない。ひどく失望したときには、自分の殻に閉じこもり、気弱になり、傷ついた犬のように隅のほうにうずくまってしまいたくなる。しかし、社会から孤立しかねないこんな気持ちははねつけなければならない。たとえ十回失敗しても最後にはかならず成功すると信じて、外へ、人々のなかへ、新たなもののなかへ飛びこむのだ。創造的ではげしい力を自分自身にぶつけるのだ。われわれを先導するのは希望の力だ。

同じような状況に陥ったほかの人たちが、どんなふうにして、何をつくりだしたかをよく観察する力‥‥周囲に目を向ければ、似たような体験をした人が何人もいて、それぞれがその人なりの解決法を見つけていることに気がつく。世界というのはなんと豊かで、なんと多くの可能性を秘めていることだろうと感心する。心をひらいて、これまで見たこともないものを、明晰な頭と好奇心で見つめなければならない。

教養と謙虚な気持ちを身につける力‥‥頭だけでなく、心もしなやかにする必要がある。なぜなら、解決策は目の前にあるのに、怠惰や思いあがりのために見えないことが多いから。

核をつかもうとする力‥‥どんな複雑な問題にも、これが核だというものは必ずある。相手の性格や戦略をつかんだものが勝つ。企業が成功するには、その時代の消費者が抱く期待、あこがれ、夢、心情などを理解しなければならない。愚かな者はいたるところで的をはずし、うぬぼれや誇大妄想的な空想に溺れる。才覚ある者はこうした無意味なものに気をとられず、真に価値あることに力をそそぐ。  
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2006年09月07日

希望を持って生きよう!!

前に書いたコトがある著者の本です。イタリアの著名な社会学者で、大学の学長にして、ベストセラー作家。大したものです。
生きるとは、希望をもつこと
で、本日は、上の本です。

「生きるための原動力」は「希望」だと言います。

希望はバクゼンとした可能性でも、かすかな光でも、不安に満ちた期待でもない。それは闇を引き裂く光であり、われわれを燃えたたせ生き返らせる熱波なのだ。

詩人ですね‥‥ともあれ、

希望を持ち、失敗や絶望などにくじけずに目標をめざして戦う力や、視線をつねに未来のほうへ向ける力は、何を成功させるにも軸になる。

このような力は病気を治すにも欠かせない。治りたいと思う人、治るだろうと心の底で感じている人、生きるために戦う人、治ると信じている人。そういう人だけが治る。

希望をもつ力は、同じように、専門の仕事や研究や芸術で成功するにも欠かせない。能力、義務、運命を内面で感じ、目標や使命をそこに見いだし、暗闇でも行こうとする力である。

何もかもがバラ色に見える無邪気な楽観主義と混同してはいけない。危険も恐れも知っている。しかし希望の強い呼び声にこたえて、障害に対抗し克服する方法を、頭を使ってねばり強く探そうとする。

希望をもつ人は、壁の向こうには絶望もあることを知っている。しかし、壁をとらえ、明晰な頭脳と勇気をもってそれに立ち向かおうとする。  
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健康幻想

おはようございます。昨夜の本に健康について、適切な説明がなされています。

そもそも健康とは何かが厳密には分からないではないか。確かに病気でないことは健康の条件だろうが、病気がなければ健康だとは必ずしも言えない。だからこそ、より完璧な健康という幻想に取り憑かれる。ややもすると、生理現象である老化にすら対抗しようとし、そのことで精神的な不健康を招くこともある。まずは、生活をみつめ直すことで十分ではないかと思うのだが、どうもそれでは納得できない人もいるようである。

先のことに関しては、「絶対」という言葉が出てきたらまず怪しいと思うことである。たとえば、「絶対に治ります」「絶対に美しくなります」「絶対にやせます」「絶対に儲かります」など上げればキリがない。どのようなこともいくらかのリスクがあるわけで、むしろそれらの情報が正直に提示されることが大切である。ところがリスクを提示されると、絶対を求めたい人は途端に迷う。人は曖昧なものを曖昧なまま受け入れるより、絶対を求めてしまうものなのかもしれない。

人類は、訳の分からない先のことになんとか法則性を見出し、より正確な予想ができるように努力し、科学はそれによって進歩してきた。今後もさらに解明されることが増えるだろうが、それでも絶対ということはない。この状況から逃れられない以上、人は不確実さの中で生きてゆくしかないのである。あくまでも確実を求め、保証がないと先へ進めないのか。少しでもリスクが少ない程度で納得するのか。何も考えないのか。人の考えを鵜呑みにするのか。不確実なものへの対処の仕方で、人々の行動は変わる。

若い時に「純粋だ」と言われやすいのは、「世の中に絶対を求めたがる」からだとワタシは思います。人生において「絶対」を求めようとすると、矢折れ力尽きてしまいます。そんな時に「絶対」だと思われるものを見つけると、それにすがり付きたくなるのは当然です。でも、その全ては「まやかし」にすぎません。

幻想を真実と偽りたがる人の多い世界ですが、悩みや迷い、不安は苦痛かもしれないけど、その不安を解消するために、人はさまざまな知識を編み出して共有し、発明や開発をしてきたのです。

絶対のない混沌とした世界を生きるのは大変かもしれません。でも、悩んだり苦しんだりしながら、自分の人生は自分で道を見つけて生きていくしかありません。それでいいのだと思いますし、それでこそ生きている意味があるのだと思います。一歩一歩しっかり踏みしめて歩いて行くことに‥‥  
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2006年09月06日

現代の親子の関係

さて、この前の本と似た様な本なのですが、
決められない! 優柔不断の病理学
という本があります。

モノや情報が溢れ、価値観が多様化する現代、拡大された自己は無限にひろがりつつあるのかもしれない。かつて親がこどもに望んだことは、健康や人に迷惑をかけないことなど、非常にシンプルだった。やがて、社会で成功して幸福になって欲しいと、将来にわたる望みが反映されるようになった。学力や進学などは、そのために必要なこととして親たちのこころに定着してきた。

その過程で、親はこどもの勉強やスポーツの能力まで自己の延長と考え、親の期待から外れると、こども自身を受け入れられなくなる傾向が表れてきた。それがいかにこどもを傷つけているか考えようともとないで、本人の希望に耳を貸さず、「あなたのためを思って」という言葉を言い訳にして親の判断を押し付ける。私立への進学を望んでいないこどもを塾に通わせる親、遊びたいこころを封じ込めて日替わりで習い事をさせる親、最近ではスポーツの英才教育やアイドル養成所にまで熱心な親がいるそうだ。それは本当に「こどものため」なのだろうか。

言うまでもないことだが、子は独立した個人である。子に対する過剰な期待の裏には、親がこどもを自分の一部として取り込みすぎていることがあるのだ。

こどもはこどもで、親の意向をしっかりと頭に刻み込む。親の希望が、あたかも自分自身の希望であるかのように錯覚する。たとえそれが自分の希望でないと分かっていても、また実際に親が望むようにできるかどうかは別にして、親の意向が「こうでなければいけない」という一つの規範として身についてしまう。時にそれは呪縛となる。

思春期になると、親の意向に沿って作り上げられたさまざまな価値観が、必ずしも自分のものではないことに気付く。そこで、あらためて自分自身のやり方を模索するようになり、思春期特有の反抗につながるのである。こうした反応は、ある意味正常なのである。こどもは目の前にいる親とぶつかっているようで、本当は頭の中に作り上げられた「親の考えというイメージ」と戦っているのだ。親の作るイメージと現実のギャップが葛藤を生み、なかなか現実の自分を認められないのである。

正におっしゃる通りです‥‥  
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ダイエットに、老化防止に‥‥

おはようございます。何時もの「日本農業新聞」の「アンドユー」の「やさい図鑑」から本日はナスです。

正直な話、ナスがダイエットに向くとは全く知りませんでした。なんと、93%が水分なので、低カロリーなんだそうです。

きゅうりと同じ様に、体の熱を取る働きがあるので、昔から暑気払いに良いとされてきましたが、切った時にみずみずしくないのは、果汁が果肉から遊離しにくいからなんだそうです。加熱すると果汁が出やすくなるので、煮崩れしやすかったり、油との相性はイイものの、揚げると水が出て、なかなかシャキッと揚げるのは難しかったりしますよね。

特徴的なのが、鮮やかな紫色の果皮に含まれる色素のアントシアニン系のナスニンとヒアシン。

ナスニンには抗酸化作用があり、発がんを抑え、老化防止にも働く。これらの色素は、アルミニウムや鉄イオンと反応して、より鮮やかな藍色になる。漬物を色良く仕上げるために、ミョウバンや古くぎを入れるのは、このためだ。

カリウムはトマトやキュウリと同程度にあり、高血圧予防に効き目があるミネラルだ。

食物繊維も2.2弔函比較的多い。腸の働きを整え、便秘を防ぐ効果がある。

コリンという成分には、肝臓の働きを良くしたり、血圧を下げたりする効果があるとされている。

これからは秋ナスの季節。夏場に比べて果実がゆっくり肥大し、じっくり養分を蓄える。糖類やアミノ酸が豊富になり、よりおいしいナスが味わえる。

「秋ナスは嫁に食わすな」という言葉があり、「嫁いびり」だとか、「体を冷やして良くナイからだ」とか、諸説ありますが、いよいよこれからは≪食欲の秋≫、食べ過ぎて困らないように、何かもう一品と思う時には、「ナス」がオススメですよ。  
Posted by seitaisikoyuri at 08:34Comments(0)TrackBack(0)