2006年12月31日

主張とは自分を表現すること

いよいよ今年も終わりです。何時も、お読み頂く皆様方アリガトウございました。初めてお読み下さる方も、ありがとうございます。御蔭様で、今年も何とかホボ1日2回の更新を続けて来れました。来年は春あたりから、ちょっと新しいコトを始める予定もあり、どうなるか微妙ではありますが、なるべく努力させて頂きます。

さて、おなじ本を越年させても何なので、これで最後になりますが、

主張というものは、相手を打ち負かすことが主張ではなく、自分を表現することなのだと覚えておいてください。

自分の言い分を認めさせようという考えを捨て、自分を表現するプロセスこそが大事で、結果はそれほど重要ではないと思い、相手に勝つという目標を捨てるコトです。

「結果」ばかり重視すると、どうしても「成功か失敗か」に心が奪われてしまいます。成功ばかりしているなら、頑張り続けられるでしょうが、失敗すると心が重くなり、強い挫折感に襲われてしまうし、極度に心配を恐れると、失敗を避けるために最初から何もしないほうがいいと考え、自分を表現することに消極的になる。何もしなければ、モチロン失敗しないだろうが、成功も当然ありえない。

失敗しようとも、プロセスに焦点を当てれば、自己表現や自己主張の行動は、それだけで建設的・生産的なコトで、十分に成功の部類に入る。プロセスに不手際があったとしても、問題点を発見できたことは貴重な成果なので、それも成功といえる。そこを修正すれば、大きな成功がもたらされるだろう。

結果よりもプロセスに重点を置けば、いい結果がでる確率も高くなる。失敗を恐れて目先の成功に気をとられず、自分の気持ちや感情を大事にする。それにつきます。

自分の気持ちや感情を大切にするのに他者は関係ない。自分の感情を引きづらないためには、その場その場で処理し、相手が決定権を持っていることは相手にまかせ、無理をしないコトです。

「お節介かな」と思うことは、「手伝いましょうか?」と聞いて、「YES」なら「手伝う」し、「NO」なら「手伝いたくてもそっとしておけばイイのです」。アナタが自分を大事にしたいように、相手も自分を大事にしたいので、踏み込んではイケナイ部分もあります。

瞬間瞬間の自分の気持ちや感情をていねいに扱うと、心配したり気を回したりしていた自分の気持ちから解放され、義務や強制ではなく、負担に感じたり恩を着せたりすることなく、心から相手を大切に思えてくる。自分を大事にすることで、相手との距離も近くなるのである。

というコトだそうです。皆様も御自分を大事にして、来年をより良い年にしてください。本当に今年一年、ありがとうございました!!  

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「優しい人」が生きづらい時代

おそようございます。ゆっくり寝てました。さて、これから書こうというコトをパソコンの立ち上げの時間の間にまとめて、いざ書き込もうとしたら、ちょうどグッドタイミングなコメントを「なえちゃんさん」から頂いていました。話の展開とあまりにぴったりなので、こっちが逆に驚いたほどです。『こういうコトもあるんだ』と少しビックリです。

現代は「優しくあろうとする人」が生きづらい時代だと、著者は述べてます。

何故なら、誠意や善意が通用しにくくなっているから。他者と誠意をもって解決しようという歩み寄りが減り、「他者を仲間とみるか、敵とみるか」で、初対面から態度を決める人さえ出てきているからである。

他者の動きを窺う人は、他者を「敵」とみなし、「不信」からスタートする。それゆえ、『人格障害』の症状を呈する人々が増えているそうです。

特に反社会的な人格障害者は、これまでの良識や論理や道徳から著しく逸脱いた行為をする。その自己本位ぶりは、想像を絶する異常さで周囲を混乱させ、トラブルを作る。

彼らは敵意を含んだ視線で周囲を窺い、「どうすれば相手を支配できるか」「どうすれば勝てるか」という競争意識の固まりである。他者を支配したり、操作するタメなら手段を選ばない。タダ、正当なやり方では相手を支配できないと信じている敗北者でもある。相手と正攻法で戦うと負けるのではと恐れているからだ。

彼らの支配欲の根底に「過去への復讐」という、深い目的がある場合もある。幼い頃に精神的・肉体的虐待を受けた犠牲者で、自分の感情を全く表現することも許されなかった。大人という支配者から嘘と脅しと気まぐれな猫撫で声で傷つけられ、裏切られ、彼らの責任でないことを彼らのせいにして責められた。

抑えられた怒りは、意識の底に潜り、復讐心へと変わった。大人から教わった責任転嫁と責任回避が唯一の逃げ道になった。正直も責められ、自分のせいにされる。これでは嘘つきになった方がと、嘘と脅しと猫撫で声が彼らの武器となった。

だから、自分責任を認めず、言い訳に長け、「みんなが言っている」「あの人にそうしろと言われた」という言葉を好んで使う。

幼い頃の被害者が、成長して加害者に転じたのだ。人格障害には至らないまでも、傷ついた心を癒せず、いつの間にか加害者と転じつつ、依然として自分を被害者だと信じて疑わない人々は確実に増え、今後ますます増加する可能性も指摘されている。  
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2006年12月30日

我慢しすぎると問題が

他人のことばかり考えている親は、不平不満が増えていきます、そういう親は、子供に期待し、子供の意思を無視して、自分の理想とする子供像に沿って育てようと思います。過度に干渉し、過保護になるのは、親が自分の人生を生きずに、子供中心の人生を送っている証拠です。

他者を中心にしていると、自分の気持ち、意思、欲求を我慢しているので、「アナタの意思や欲求は?」と聞かれるとすぐに答えられない。

「他人を傷つけたくないから黙って我慢している」という行為自体、果たして本当にそうなのか? 話してみなければ、相手が傷つくかどうか、本当の所は判らない。

「自分の話を聞いてくれなかったらどうしよう」と自分が傷つかないようにしているだけかもしれない。我慢は自己主張をどんどん恐れに導く。

我慢には、「他者を思い通りにしたいけれどできない」という、相手を操作する意識が潜んでいるので、本人が我慢しているつもりでも、他者からは「ふて腐れた顔をしてる」と見えたり、「身体の調子が悪いのか?」と心配させているかもしれない。本人だけが我慢していると信じているだけなのかもしれません。

「相手と争わないためには、自分の意思を明確にして、自分の気持ちや感情をそのつど表現した方がイイ」のです。

相手を責める気持ちがあると、相手の言葉も自分を責めている言葉に聞こえます。そういう時に、「責められると傷つく」とか「責められて哀しい」という感情をそのまま表現すれば、問題はそんなにこじれません。

でも、「理解したり、受け止めて欲しい」のに、「理解せず、受け止めずに、責められた」、だから、「こっちにも相手を責めたくなる」という気持ちの流れがあり、我慢しようと思うが、やっぱり我慢出来ないから、主張しようとすると、多分それは「怒り」の感情にまで変化しているので、争いになりやすいそうです。

しかし、争いで終わるような主張の仕方は、恐れと疲れしか得られません。

相手が責めていると感じたら、「私は責められるとツライ」とスグに言う方が、ズッとイイのです。思考の冒頭に『私は』という言葉を持ってくるようにしてみてください。

相手を主語にした文章はNGです。「相手」が主語だと、「相手」中心の思考になります。自分を主語にして話そうとすると、「自分」中心の思考になれるそうです。試してみてくださいね。  
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意識を自分に集中しよう

更新遅くなりました。疲れて起きれなかった上に、今年最後の仕事をひっそりして参りました。

皆さん、とても忙しく働いて来られた方なので、今年一年の感謝を込めて、休み返上しましたが、これから大掃除しないとイケマセン。ナカナカ、本当の休みは遠いようです。

ともあれ、では、どうすべきかというコトを引っ張っていても、悪いのでササッと書き込みします。

自分を中心にするというコトは、自分が何をしてもイイと考えるコトではナク、意識を自分に向けなさいというコトだそうです。

神経をとぎすまして相手の動きを追い、相手の反応で自分の態度を決めるという姿勢だと、相手の態度で防御に回ったり、下手に出ておだてたり、逆に支配的な態度で相手を抑えつけたりと、自分の態度は相手によってカメレオンみたいになってしまいます。

百人の人に、百通りのやり方で対処したら、自分自身はドコにあるのか判らなくなります。

自分を見つめて自分の意思や欲求を大事にすべきであって、他人の言動を監視するのは止めよというコトだそうです。

心理学の大前提に、「他人は強制的に変えることはできない。不満を解消したいなら、自分自身が変わるしかない」というのがあります。

他人に関心を向けて不平不満でいっぱいになるより、自分に関心を向けて、自分の欲求や意思を大事にしたほうが楽しいというコトです。

自分の意思や欲求に関心を向ければ、周囲の雑音もそんなに気にならなくなります。相手に向けるエネルギーを消耗せずに心にゆとりを持てれば、相手のことも理解しやすくなるそうです。  
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2006年12月29日

他者中心の考え方は親から

更新遅くなりました。疲れて夕食後コタツで寝てました。それでも、『晩にと書いたな〜』と思って書いてます。寝起きなので、少し頭がボーッとしてますが、許してください。

他者に焦点を当て、他者の目を意識して生きてきたことを不思議に思わないとしたら、その生き方は、あなたが最も身近に接して人生の生き方を学ぶ際の規範としてきた人びと、つまり多くの場合には親から学んだものだといえる。世間についての親の見方や対処の仕方は、そのまま子供自身の世間に対する見方や対処の仕方の鋳型となるというコトだそうです。

人生を地図にたとえるならば、あなたの家庭はあなたに人生の地図を提供してくれるだけではない。あなたはその家庭から、地図上に網の目のように張りめぐらされている道路とともに、その道路を進むための運転技能をも学ぶのだ。そして、それは人生で有用だけでナク、困難を引き起こすこともしばしばあると気付かないと、社会に出てから、初めて誤った技能を身につけていると気付いても、それを修正できずに悩むコトになりかねない。

「あの人が〜した」という考え方は、世間は冷たいという悲観的な見方だけではなく、「生きづらい方法」まで教えられている。

\ご屬藁笋燭い箸いθ甦囘な見方
⊆分の目を他者に向けて物事を考え、他者を責めるという思考態度。
そんな世間に対して「自分はどうする力もない」と自分の意思を捨てた自己否定。
い修里海箸砲弔い道拉曚靴笋垢せ匐,里茲Δ蔑場の弱者を相手に愚痴をこぼしたり、と親と似たような支配的態度を取る


そして、以上のコトが、いわゆる世代間連鎖となって、代々続く場合もあるというコトなのです。

以上の様に教育された子供は、社会に出たとき、教育されたとおりの思考パターンと行動パターン、そしてコミュニケーションの方法によって人間関係を築くことになってしまうのである。

だから、そうした世代間連鎖を断ち切るタメには、アナタが決断して、断ち切らない限り、ドンドン続いていくのだというコトを意識しなければ、アナタの子孫も同じ泥沼にはまるコトになります。

さて、脱出方法について詳しくは明日。オヤスミナサイ。  
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二面性がある人はどんな人?

おはようございます。長野は今年初めて雪かきが必要なほど、積雪がありました。太陽がしっかり照り付け始めましたので、すぐにキレイになってしまうかもしれません。ズク(長野の方言で「根気」のコト)を出して雪を退かすと、太陽の熱を地面が吸収しやすくなるので、早く雪が溶けるし、地面に熱が蓄えられると、次に積雪しにくくなりますので、「ずくなし」といえど、イヤそれゆえに次を考えると、ズクを出すしかありません。で、こんな時間の更新です。仕事の山場を越えたものの、少し息抜きして、再び主人の手伝いです。今日も、明日も、自分の店は閉めたまま、こっそり前から頼まれていた分の仕事も入ってますし‥‥

さて、本題です。「二面性がある人」というのは、相手によって自分の態度を変えるというコトです。つまり、「弱い相手だと、相手の反応なんて気にしないで強気に出られるけれど、強そうな相手だと臆病になり、極端に相手の顔色を窺うようになって何も言えなくなってしまう」人なのだそうです。

人間関係は相手とのバランスだから、相手と自分との双方の関係性によって力関係は変わります。そのバランスが極端でなければ、「二面性」とまでいかないのですが、「支配か被支配か」となると、力関係を重視するので、知らず知らず相手に威圧的になる場合があります。

相手の顔色を窺うのは、「相手に嫌われたくない、見捨てられたくない」という恐れ、もしくは、「相手に裏切られるかも、傷つけられるかも、被害を与えられるかも、支配されるかも」という不安があるからです。

しかし、相手についての印象は、自分の目からみた思い込みの産物にすぎず、本当に相手が自分をそう思っているかどうかは判らないのに、勝手に類推して自分の態度を変えても、大した意味があるのかというコトです。

確かに、ビッタリ予測と合っていればOKでしょうが、自分の仮想相手に対して独り相撲だったなんてコトの方が多いと思います。何故なら、決して相手と同一な人間になれるハズはナイのですから。

さて、この本の話は晩に続きます。時間がナイのでこの辺で。  
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2006年12月28日

自己主張も大事

年末でヘトヘトです。主人の本業を手伝っているので。普段はワタシが助けて貰っているのですから、こんな時こそ頑張らないととは思うのですが、『歳だな〜』と思います。年々、体力が落ちてきているコトを実感してますが、皆様はどんな年末を迎えてらっしゃるでしょうか?

忙しがっているウチに、図書館も閉まってしまいましたし、借りている本で書き込みたいと思ったものは、全て書き終わってしまいました。なので、書棚にある本から『これは!』と思ったものを書きますので、ヒョッとして過去に書いていたらスミマセン。でも、同じ本でも、多分違う話になると思いますし、忘れているから書き込むのですから、おそらく読んで下さる方々も、忘れていてくださると期待(笑)してます。本人としては、書いた覚えがナイものを一応選んではいるのですが‥‥
自己主張が楽にできる本―相手を恐れず言いたいことを言うために
いじめられたり、虐待されるのを回避するタメには、「No!」と言うコトが大切です。日本人は、相手のコトを気遣うようにと教育されているので、ナカナカ「止めて!!」と言えなかったりします。「自分は大切にされる存在」であり、他人中心から自分中心にならないと困る場合も多いのです。

「自己チュー」は嫌われますが、相手だけを見て自分を見ないと不満が生じます。他人の批判ばかりしている人は、「自分はどうしたいか」という気持ちがオロソカになっている場合が多いのだと著者は書いてます。「あいつは態度が横柄だ」「あいつは人を否定ばかりしている」「あいつは陰口ばかり言う」等々、「自分の周囲には性格の悪い奴、非常識な奴がウヨウヨしていて、自分を不当に扱っている」と延々話す人に、「だとしたら、どうしたいのか?」とか、「現状を変えるためにどうしたいのか」と問いかけると答えがナイ人が居る。

自分を中心にせず、相手のコトばかり目を向けていると、「相手の出方はこうだから、自分は〜しよう」というように、相手の態度を窺ってから自分の態度を決めるという判断になる。自分の意思と選択の尺度を相手の意思や選択に任せているのと同じことになるのだ、と。

さて、本日、とても疲れましたので、ココまで。後は明日にさせてください。オヤスミナサイ。  
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「金」がカタキの世とはいえ

おはようございます。最近は、「立腹日記」というよりも、「呆れ果て日記」とカテゴリーの名前を変えた方がイイみたいだと思うコトばかり続いています。

「ミイラ取りがミイラになる」という話もありますし、「人間はその弱点を克服したがる存在」という心理学者のアドラーの言葉もありますが、それにしても、自分がやってはイケナイ場所のトップを平気で受ける感覚が、以前の「犯罪者の心理(犯罪者には罪の意識がナク、自己弁護があるばかり)」という話を思い出す毎日です。

ともあれ、そう思ってからは本当に立腹するコトが激減しました。同じ人間だと思うから、腹も立つので、『倫理観のナイ人間は存在するものなのだ』とさえ、思ってしまえば大した痛痒も感じません。

タダ、問題なのは、そうやってメチャクチャに使われた税金の尻拭いをされるのは、我々一般国民なんだというコト。

日々、コツコツと働き、管理職目前になったら残業代ゼロで働けと言われていたり(横文字でゴマかされそうになってますが、〔ホワイトカラー・エグゼブション〕はそういうコトです)、フリーターという言葉で安く働かされている人々、会社が大変ならば薄給も仕方ナイだろうと思いますが、労働者を安く使って儲けたら、会社の上部の人々で山分け(アメリカは正にそうで、日本も追随しそうです)では、労働者のやる気は消滅してしまうでしょう。

何はともあれ、より多くの国民が少しづつでも御金を使うコト以外に、景気は良くナラナイと思います。貿易赤字の解消を農産物の輸入で減らす様なコトでは、食料安全保障の上でも心配ですし、地産地消ではありませんが、国内で作ったモノをなるべく優先的に消費しようとしなければ、日本全体がオカシクなります。

とはいえ、国産といえども「研修」という名目で、日本人の最低賃金よりも安く外国から労働者を連れてきている現状ですから、それも下手すると「焼け石に水」かもしれませんが、アキラメナイで少しでも日本を良くしようと努力するコト。

口だけで「国を愛している」と叫ぶ人達の尻馬に乗らずに、「行為」として「国を愛する」しか方策はありません。

大体、口ばかり立派なコトを言う人は、実際には何もやらないというコト、多分アナタの周りでもあると思います。「巧言令色少なし仁」という言葉は、現代の世まで継続されているようですね。  
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2006年12月27日

「影」という存在

さて、いよいよこの本の話も最後になりますが、似ている人だから、長続きして付き合えるとは限らないものです。何故なら、人間は「自分に甘く、他人に厳しい」ものだから。

つまり、類似しているというコトは、自分と似た欠点を持っている可能性もあるワケで、物事は見方によっては、同じモノでも違って見えるコトがあります。

「石橋を叩いて渡る」のは、慎重と思えば長所ですが、優柔不断とか、グズグスしているという捉え方も出来ます。自分だと、それは当然なコトなのですが、『他人がそうしている場合も当然だと思えるのか?』というコトです。

つまり、全く反対で、自分が抑えているコトをする人に対して、それは自分の「影」なのだと思って、惹かれたり反発するコトもあれば、似すぎているから、自分と似た行動を批判したくなる時もあるのです。

だから、この本では書かれていませんが、西洋の「ベターハーフ」という呼び方が、伴侶に相応しい様に、友人も自分のナイものを持っていながら、共通する部分もあり、二人で居ると「満月(フルムーン)」に近付く人と仲良くしていれば、満足出来るのだろうと思います。

互いにつきあいの距離を上手にとって、しかもその距離の調節や操作にそれほど気をつかうことなく、相手と共にいる。あるいは「あの人がいる」と想うだけで、ほっとできるような関係がひとつでもあれば、その他のつきあいは楽になるだろう。そして、そのような関係こそ友情と言えるものではなかろうか。

上の太字の著者の言葉は、友情を簡潔に述べていると思います。

人間は決して完全ではない。友人の欠点におどろくこともある。「裏切られた」と言いたいときもある。そんなときに、自分を人間としてよく見ると、まずまず似たような者であるし、そうでありながら、お互いに異なるよさを持っていることもわかる。常に裏切りの可能性を持つ関係も認めた上で、「やっぱり、ええやつやな」と感じるのが深い友情ではなかろうか。

「友情が長続きする秘訣」が幾つも書かれていた本でした。  
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なぜ友人と恋敵になりやすいのか?

おはようございます。トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』のように、少年が同性の友人に心をときめかすコトもありますが、『坊っちゃん』や『こころ』、『走れメロス』映画「戦場のメリークリスマス」の原作の小説『影の獄にて』などの解説もしてます。その話は気になる方は読んで頂くことにして、以前、人種差別の話と共に書いた、若い頃、大好きだった『風と共に去りぬ』をワタシは連想しました。

一般に恋愛小説と受け止められてますが、あれは、スカーレットとメラニーの友情が軸なのだと理解しました。

「理想にしている母親」のようになれない娘スカーレットと、「母親」のように落ち着いているメラニー、二人は「光と影」の様な存在だったので、メラニーの死と共にスカーレットの「メラニーが愛するアシュレー」への恋心が一挙に減退したのは当然のなりゆきだったのだと、今にして気付きました。

「友情」も「恋愛」も、自分とは逆の正反対の相手に対して、魅力を感じるコトもあれば、大嫌いというときもある。大嫌いと大好きが紙一重というのが、人生のオモシロイとこだと著者は言う。

友情は、友人が自分といろいろな点でよく似ていて、考えていることもすぐ一致するときと、自分とはいろいろな点で反対で、そこに憧れを感じるという場合がある。前者の場合は、関係は固く安定感がある。後者の場合は時に争いがあったり、絶交と言ったりもするが、そこに不思議な魅力が存在する。類似性の高さは関係の維持に役立ち、相反性の高さは、関係の発展のために役立つということらしい。

類似性だけでは退屈するし、相反性だけでは破壊的になる。

自分には無いものを多く持っている相手に対して、それを自分のものにしたい、それと合体したいという欲求がわいてくるのが人間の特徴である。心理的な側面で見ると、同一視とか独占欲とかが生じてくる。友情と同性愛が重なるみたいだが、意識しないところで一体になると、友人の恋するひとを知らぬ間に恋するということが生じるのだという。  
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2006年12月26日

真実とやさしさは、行くえを照らす星

今朝の話にありましたが、「夜中の十二時に、自動車のトランクに死体を入れて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる」には、「やさしさ」が必要になるだろう。

友人の欠点や、悪事を知った時に、それを肯定することはないが、非難する前に、まずそのようなことのある人間としての苦しみや悲しみに身を寄せ、気持ちを共にした上で、それからのことを共に考えるということである。

外から見て批判したり、非難する前に、内側に共に立って感情をわかち合う、そんな「やさしさ」が友情を支えるのだ。

そこまでの「やさしさ」は持ち合わせてナイという人も多いだろう。というより、そんな人の方が多いだろう。

「やさしさ」や「真実」は、友情の行くえを照らす、二つの星であり、友情について考えたり、方向を示すために必要ではあるが、人間がそこに「到達する」ことは、まず無いのだ。

『真の友情とは?』と考えることは必要かもしれないが、それに囚われると、自分の友情や友人が、理想に合致しないと怒ったり嘆いたりしてしまう。さりとて、理想が不要となると、友情など取るに足らないものになってしまうのではないかという趣旨のコトを著者は述べている。

友情と恋愛感情も似ている部分がある。激しく華やかな時の感情は非常に強く、他のすべての関係を凌駕するけれども、長続きは難しい。

唯一無二の友達や恋人となると、相手と自分は、互いに独占したいという気持ちになる。しかし、孤島で二人きりで暮らしているならともかく、そんなコトは無理な話だ。(孤島で二人きりでも、互いに飽きる可能性はあるが)

日常的で何の珍しさもないが、二人の間に流れている感情には実に深いものがある。

こんな「茶飲み友達」のような夫婦や友人の関係こそが、互いの関係の長続きの秘訣になりかねない。相手のためにはどんな犠牲も惜しまない激しい関係は時として、もろかったりもするが、日常行為と共に積み重ねられた関係は、激しくなくとも、深く強いというコトもあるものだ。  
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友情というもの

おはようございます。ネットのトラブルで投稿が消えてしまいました。復帰しましたので、次の予約の方の到着まで。尻切れトンボになったとしても、お許しください。

「友情」は「愛情」と並ぶ、人生を支える最大のモノです。「恋愛論」や「友情」について書かれた書物が多いのも、そのタメでしょう。過去にも何冊も読んできましたが、「友情論」とするならば、屈指の本だと思います。
大人の友情
題名はこう書かれていますが、若い人の方が読んでタメになり、大人は自分の人生を振り返られるかと思います。

大学に入って一週間、「どうしても友だちができないので困っている。どうしたら友人ができるか教えて欲しい」というカウンセラーへの相談は、さすがに驚きです。

友人の範囲をどのくらいに考えているのかが問題かと思いますが、「親友」と呼べるものが、たった一週間で見つかるハズもナク、普通の「友人」であれば、とりあえず「自分から声を掛けまくる」コト以外にナイでしょう。「下手な鉄砲も数打てば当たる」ということです。前に「モテたかった」らそうすべきだと書いたコトもありますが、「それが出来れば‥‥」という反応もありましたが、ともあれ、黙っていても相手から声を掛けてもらえるコトが多いほど、魅力的だと自分を思えるならともかく、普通は無理です。

誰だって、知らない人に話しかけるのは「恐怖感」があります。声を掛けてくれた人に、反応するのは楽に決まっています。

と、いう様なコトが書いてあるワケではありません。もっと深い話です。書き換えて書いたら、前のと全然違う話になってしまいました。行き当たりバッタリで書いてますから‥‥

「夜中の十二時に、自動車のトランクに死体を入れて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人」なんて「究極の友人」の話から、「お互いにある程度考えはわかっているし、共通の興味や関心事があり、会って話し合うのは楽しい」という程度のものまで、幅広く「友情」について語ってくれてますので、晩は本の話に沿っていきます。  
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2006年12月25日

正しい歴史を教えよう

さて、今朝の本ですが、『日本書紀』とすり合わせようと画策していて矛盾だらけの部分も多いので、とにかく中国の正史に書かれた部分だけを読めば、日本の歴史が間違って教えられているコトに必ずや気付きます。

『隋書』の600年の「使」について書いてある部分は、「倭王姓」は「阿毎」、「字」は「多利思比孤」、「王妻」は「雞弥」「太子」の「名」は「利歌弥多弗利」と書いてあるのですから、『日本書紀』では、推古天皇は女ですし、「倭」の太子は皇太子の意味ですから、「聖徳太子」とは無関係ですよね。

しかも、「内官」は「十二」で「大」「小」と「徳」「仁」「義」「礼」「智」「信」を組み合わせて、「大徳」「小徳」「大仁」‥‥と位が下がるのです。ちなみに『日本書紀』の冠位十二階では、「徳・仁・礼・信・義・智」の順番。

そして、「阿蘇山」が「有」るというのですが、近畿地方に都が在るとしたら、何で「阿蘇山?」と思うのが普通でしょう。

『宋書』に詳しく書いてある「倭」の「五王」が『日本書紀』とは合わないコト。

そして、『旧唐書(くとうじょ)』はほとんど教科書で取り上げられていませんが、「倭国」は「古」の「倭の奴国」とはっきり書かれている上に、「日本国」は「倭国」の別種。「日本」は「旧小国」の「倭国之地」を「併(あわ)」す。「西界・南界」は「大海」で、「東界・北界」は「大山」が「有」り、「山外」は「即」ち「毛人之国」と書かれています。

以上を整理すると、

 峩皸」が出た「倭」の「奴国」が中国と代々、通交していた。

◆嶇繊廚蓮嵌槎鏝董廖崑耆拭廖峪拭廖嵬錙廖嶌僉廖峩宗廖嵒陝廚箸いμ召硫Δ中国に使いを出した。

妻も皇子もいる「阿毎多利思比孤」が600年と607年に朝貢して、608年に「倭国」に使者が来た。

ぁ崙本国」は小国の「倭国」を併合したものの、東と北の山を越えた所には「毛人」の国が存在している。


ともあれ、これが客観的歴史の真実なのです。  
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「倭人」・「倭国」とは?

おはようございます。「倭国」とは「日本」の昔の名前で、「倭人」とは「日本人」の昔の呼ばれ方だと思っている人が多いかと思いますが、予断を持たずに、中国の正史に当たれば、違うというコトを書いた本があります。
中国正史倭人・倭国伝全釈
この本は、中国の正史に出てきた「倭」と書かれていた部分を全て抜き書きして、現代語訳してあります。ちなみに解説で書かれている部分は、御本人の意向が反映されていますので、書かれていない部分も補強されてますから、それが正しいかどうかは、読み方によって違うと思う人もあるかと思いますが、ともあれ、日本の古代に対する研究をしたい人にとっては、格好の本になると思います。

まず、「倭族」という部族があり、それは「漢族」が長江流域を原住地として各地に移動分布した民族を総括して命名した卑称。

「倭」は古代中国では「wo(ヲ)」と発音され、「越」の古音「ヲ」に通じる可能性がある。〔越は「越前」「越中」「越後」の「越」である〕物部一族の名門で愛媛県の越智国造(おちのくにのみやつこ)があるが、現在でも「越智」姓の人は「越」を古音のまま伝えている。

「倭人」は「越人」の可能性があり、その本拠地は浙江省紹興市。中国の春秋時代末に「呉」を滅ぼしたが、戦国時代末に「楚(そ)」に討たれて亡びた。

ちなみに「梁(りょう)書」によると、「倭者、自ら太白(たいはく)の末(すえ)と云う」とある。「越」に滅ぼされた「呉」王の子孫だというのだ。〔日本に「呉(くれ)市」が現存していることを思い出してください〕

文身(入れ墨)・断髪の習俗を持つのが「倭人」の特徴。

ココまでで、古代日本人の「倭人」は中国から来たことは明々白々な事実なワケですね。ともあれ、アフリカがホモ・サピエンスのルーツだとするならば、東へ東へと移動したら、一番最後あたりに定着するのは当然のコトですから、さほど理論的にも何の問題もナイと思います。  
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2006年12月24日

イチゴは野菜!!

『エッ!』と思った人もいらっしゃるでしょう。ワタシもそう思いました。

「奥様は魔女」(古いな)じゃないですが、「イチゴは野菜だったのです‥‥」という感じですね。

園芸学では、植物の特性と栽培の観点から「野菜」と分類されるのだそうです。

ですから、本日も「日本農業新聞」の「アンドユー」の「やさい図鑑」からです。

「果菜類」と分類され、農水省の生産出荷統計でも「果実的野菜」。

昔から果物屋さんで扱われているので、一般感覚としては「果物」。ちなみに、農水省の卸売市場の統計や総務省の家計調査では「果物」なので、話がややこしい。

学問的には野菜だが、生活感覚では果物ということ。

栄養面では、

.咼織潺Cが豊富‥‥200鎮124性調泙泙譟甘柿、キウイフルーツに次ぐ水準。

⇒媚世ずば抜けて多い‥‥200鎮罎180μ帖黄桃の76μ帖▲ウイフルーツの72μ弔犯罎戮襪2倍以上。
葉酸は、妊婦に必要なビタミン。イチゴを200弔1日の摂取推奨量の75%。心臓病やアルツハイマー型認知症の予防効果もあるといわれているのだから、手軽に食べられるのが嬉しい。

アントシアンも多い‥‥赤い色はその証拠。ブルーベリーが有名で、抗酸化作用があり生活習慣病の予防に役立つ。

この時間だと、クリスマスケーキに載っているイチゴを食べた人も多いかと思いますが、毎日200弔之鮃が維持できるという。ちなみに1パックは300弔普通です。  
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自己欺瞞とどう付き合うか

おはようございます。今日はクリスマスイブですが、別にクリスチャンでもナイので、既に昨日ケーキは食べてしまい。なんとなく、美味しいモノを食べられる日になってます。日本人は商魂たくましく、外国の習慣をなんとなくバックボーンを無視して取り入れていますが、それが平和的に行われるのならイイと思いますが、ねじ曲がって何かに利用されると問題なので、その辺は何につけ注意が必要かと思います。では、本の締めくくりにいきます。

ともあれ、自己欺瞞は私たちが自尊心を保てるようにしてくれる。自己欺瞞がなければ、ヒトという種がこれほど複雑な社会を築くことはできず、今でも裸で森の中を走り回っていたかもしれない。

自己欺瞞も人が部族単位で移動生活をし、武器といえば木ぎれや石しか持たない世界でならすばらしい適応手段だっただろう。しかし世界中に核兵器や生物兵器があふれている今ではよい手段とはいえない。問題は、私たちの中にそれが組み込まれているということだ。スイッチが入ったまま、オフにすることができなくなっているのだ。最後に笑うのは自然選択なのかもしれない。

自己欺瞞は集団的な形態を取るとき、非常に危険なものになってしまう。愛国主義、道徳推進運動、熱狂的な宗教運動は人びとの間に疫病のように蔓延し、世界を善と悪、敵と味方、正と邪に切り分ける。過去には、集団が競い合うことが利益をもたらしたこともある。独善的な改革運動によって勝者の生活だけでなく敗者の生活も質が大きく向上したこともある。しかし、二十一世紀の今は、それがまったくの災いにしかならない可能性が高い。

人間の本性について、手の込んだうそをつくのをやめる努力を本気でしよう。これまでのやり方ではもはやうまくいきそうもない。子どもにはおとぎ話ではなく、ほんとうの歴史を教えよう。自分でよく考えもせず主義主張にいたずらに忠誠を尽くすのは美徳ではなく、恥ずべきこととして扱うことだ。伝染病に備えて予防接種をするように、有害な幻想が社会に広がることを防ぐことにもっと関心を持つべきだ。現実的になろう。

ある程度の自己欺瞞を許容するのと、わざわざ促進するのとではまったく違ってくる。少なくとも、私たちがみな生まれつきのうそつきだということを認めるのを助け合うことはできる。  
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2006年12月23日

ウソを見抜くには

うそを見分ける一番の方法は、相手の表情に注意を集中することです。

ほかの人のほんとうの気持ちを理解するには、非言語的指標に注意を払わなくてはいけません。

うそをついている人の顔をふとよぎる手がかりが表れる時間はわずか百分の二十五秒。観察者が意識の上で気付くには短すぎるはずだが、それでも見逃されることなく、この目的のために特別に発達した無意識の神経回路で分析するしかない。

ほんとうの気持ちを「押し殺そう」とするあまりに硬い不自然な表情になってしまうことが、もっとはっきりした手がかりになることもある。(つい最近の会見で、「一身上の都合」を13回繰り返した時の首相の表情を思い出してもらえば、納得されるコトと思います)

意識してうそを見破る技術は、自然に身についているものではなく、学び、練習して習得するものです。

言語は諸刃の剣で、物事をはっきりさせるいっぽうで目をくらます。

その上、コストは考えられないほど低い。

言語の出現は、自分で自分をだますことを可能にし、他人をさらにうまくだませるようになった。

人間関係に関する推論というものはすべて、人間の本性に対して誰もが抱いている民間心理理論とでもいうべき仮定から生じる。したがって、その心理理論に偏りがあったとすれば、そこから得る評価はすべて誤っていることになる。

自分自身についてだけでなく、他人に対しても同じである。

「ふつうは自己欺瞞は行われない」
「善良な人はうそをつかない」
「正常な感覚の持ち主なら利己心によって行動することはない」
「政治家は公に奉仕しようとするものだ」

以上は、願望に過ぎないのかもしれない。
  
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何故ウソをつくのか?

おはようございます。今朝のタイトルが本の原題です。時々、翻訳モノの本の中には、『シンプルすぎるから嫌われたのだろうけど、直訳した方がインパクトがあるのに』と思う題名がママあります。

さて、人間はどうして皆「ウソつき」なのかというと、多くの動物はこぞって自分と同じ種のほかのメンバーのまねをする。

生物学ではこれを自己擬態と呼んでいる。自己擬態には三種類ある。自分自身の体の一部を模倣するもの、自分自身の体全体を模倣するもの、自分と同じ種のほかのメンバーを模倣するもの、である。

自己擬態はつがう相手に自分をよく見せようとする際にも利用できる。‥‥つまり質の高い遺伝子を持った子どもを得たいと望むメスに、じゅうぶんな資源を持っていることを示すサインになる。

人間の化粧や洋服による体型を補正または、補正して見える様にという努力もそうしたものである。

そうした延長に「嘘」がある。そして、意識的に「ウソをつく」と、どうしても他人にバレやすくなる。しかし、そこで真実を自分の意識から隠せば、他者からはいっそう巧妙に隠しおおせる。うそをついていても、だまそうという意識がなければ、うそをつくというストレスのために出てしまうサインを出すこともないのである。

しかし、自己欺瞞が有益だというなら、どうして私たちはずっと自分にうそをつき続けないのだろうか。その理由は第一に、だましは、したがって自己欺瞞も、いつも有利に働くとは限らないから。第二に、真実と違ってうそはできるだけ節約しないと、「オオカミ少年」のように、いつもいつもまわりの人をだまそうとしていると、うそを信じさせることができない。だまそうとしても、だましてばかりでは何にもならなくなってしまうのだ。第三に、自己欺瞞にはそれなりの代価がいる。公正な手段では得られなかった社会的利益が手に入るいっぽう、自分をごまかさずにいれば得られたはずのタメになる情報を逃してしまうこともある。ほどほどにしないと、人間関係を操作して得る利益より、情報を逃した損失のほうが大きくなる。そうなれば、自然はその個体を消滅させることを選択するだろう。

では、本日もどうしてもと頼まれた方を仕事してきますので、続きは晩に。  
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2006年12月22日

アナタもワタシも嘘つき?

いやはや、大変面白い本を見つけました。「私たちはみな生まれながらのうそつきだ。だれでも十分間に三回は、自覚のないままにうそをついている。つまり知らず知らずのうちに、他人だけではなく、自分も欺いていることになる」とまず書かれています。

なるほど‥‥だから政治家の皆さんの話は、ちょっとその頻度が高いだけの話だったのですね。
うそつきの進化論―無意識にだまそうとする心
こちらの本です。

自分を欺こうとする性向はどうして人の心に深く根をおろすことになったのだろうか。自己欺瞞は、これから見ていくように、人と人とが付き合う上で利点が多いために私たちの本質の一部になったと考えられる。自分自身にうそをつくことができれば、生活の中で受けるストレスの多くをやわらげることができる。そして、もっと重要なのは、他人にうそをつくことが容易になる点だ。現代の社会生物学による洞察の中でもっとも重要なものの一つが、自己欺瞞はだましの補佐役を務めているというものだろう。自分自身から真実を隠すことによって、他人からもさらにうまく真実を隠せるわけだ。‥‥一般に流布している精神医学的な俗説では、自分で自分にうそをつくのは情緒障害があるため、とされているが、それどころか、おそらくそれは精神のバランスをとるために必要不可欠な行為なのだ。

ちよっと、ビックリですね。しかし、裏返すと、一杯ウソをつく人は、そうしないと精神のバランスがとれない人というコトになるので、やっぱりあまりの「ウソつき」の人は情緒障害なんだろうと思います。

ともあれ、誰でも、期せずして何らかのウソをついているというコトです。ともあれ、「嘘」というものは、お釈迦様ですら「嘘も方便」とおっしゃっているのですから、なるべく他人を傷付けないウソがイイですね。

ただ、ウソと判りきっているのに、しらばっくれてウソばっかり言っている人もいますが、ヒド過ぎるウソは他人にもバレてますから‥‥ともあれ、オモシロそうな本なので、しばし、この本の話をしてみたいと思います。  
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何となく誤魔化されている?

おはようございます。(時々、お断わりを書いてますが、午前中の日記だと自分で後から確認しやすくするタメに書いているので、気にしないでください)最近のTVを見ていると、『皆、不満とかがあるのに、「お茶を濁して幕引き」という方に持って行きたがってない?』と思ってしまいます。

なので、見ているとバカバカしくなってしまい、段々マトモに見なくなっているのですが、ネットとかで『へー! こんなコトが裏側にあるんだ』と思っても、大マスコミには全然報道されないので、ネット環境にある人と、そうでない人との情報格差も増大していると思います。

「なんとなく不満はあるけど、現状維持が一番だよね」という落とし所に向けて、世論誘導されているのではないかと、何となく不気味です。

政府寄りの発言をした方が、重用され、肩書きが上がる世の中なのは常ですが、批判する人々の多くは退場を余儀なくされるというのでは、世の中は「独裁政治」が横行するだけです。

今の北朝鮮を「なんて国だ!!」と思ってらっしゃる方はとても多いと思います。ワタシもそう思いはしますが、かつて日本が併合した時の、枠組みを利用しているだけだと考えると、戦前の日本を見ている様で、なんだか不憫になります。『親戚とかで、北朝鮮に居る人達の心境はどうなんだろうか?』と考えてもみますが、全くそういう状況ではナイので、実際のトコは判りません。

しかし、日本にも「過去の亡霊」の様な集団があって、「古き良き時代を懐かしむ」あまり、「昔に帰ろう!」という「回顧主義的」な発言をする人々がいますが、現在の環境に慣れた人が、精神だけでも昔に戻れるとは、とても思いません。

科学の「発展」や「進歩」は目覚しく、一度、それを享受してしまった人間にその便利さを手離すコトなど、とても出来ません。

だから、今ある中で、「より良い方向」を見出していかなくてはならないと思います。

「熱しやすく、冷めやすい」のは、日本人の特性で、ある意味それは欠点だけでナク、あくなき変革への追求になります。ただ、ラベルだけが変わって、本質が変わらないモノと、真に必要なモノや大事なモノとの選別の力を今ほど求められている時代はナイと思います。  
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2006年12月21日

がんばらずに生きる

午後は二時から仕事なので、NHKのスタジオパークを大体途中まで見るコトが多いのですが、本日のゲストは鎌田實医師でした。

下手をすると高給取りは寝ないで働かなくてはならない感じに労働環境が激変しそうな時代ですから、今こそ「がんばらない」生き方は大事だろうと思います。

「ストレスをためない」というのも、長生きの秘訣だと言ってましたし、本当にそうだとも思ってはいるのですが、イケメン議員の路上ディープキスで大騒ぎした後で、愛人同棲家賃無料官舎入居問題を「プライベート」で片付けようとする二枚舌発言の数々は怒りを通り越して呆れ果てました。こんな世の中で、ストレスを溜めずに生きるのは、ちょっと無理かもしれませんが、30mを速歩で歩いたら、30mをゆっくり歩くという健康法は、誰でも手軽に出来るだろうと思いました。

中腰で二十秒静止するのは、身体が硬い人には少々無理かと思いましたが。

体重(圈法狄板后m)÷身長(m)

の値は22が一番とされていて、24〜26のやや太めで大丈夫というのは、前から「やや太目が長生きしやすい」と聞いてましたが、数値で「やや太目」の適応範囲を示して頂いたので、とても判りやすかったです。

それにしても、テレビはふっくら映るからとはいえ、アナウンサーの方は20以下だったりして、やせる努力してるんだろうなと思いました。

読んではいませんが、
ちょい太でだいじょうぶ―メタボリックシンドロームにならないコツ
この本の話として、他のTVとかでもやってましたから大体は知ってたのですが、話が変わって、イラクの野菜をホトンド食べられずに衰弱している子供の写真と共に、「戦争はイケナイ」というメッセージはしみじみと胸に沁みました。

じっくり見たかったのですが、仕事が待ってると思うとそうもいきませんでした。でも、TVのトーク番組で、一人だけがゲストだと、その人となりが何となく伝わってきます。ああいう歳の取り方は素敵だと思わせて頂きました。  
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格差が拡大する時代

おはようございます。財務省が2007年の予算原案が閣議に提出されましたが、生活保護世帯は母子家庭の加算を段階的廃止など、弱者には大変な時代になりそうです。世の中には、偽装離婚して、保護費を受ける様な人も存在したり、他人名義の高級自家用車を乗り回す人もいると聞いてますが、決定後も定期的に調査するコトでそうしたコトは対処して、本当に困っている人には救いの手を差し伸べるべきだと思います。

昨夜のNHKの「クローズアップ現代」でも、支給停止で困っている人がいましたが、よく考えてみれば、国民年金を満額受け取ったとしても生活保護費より少なかったりするワケで、だったら『年金納めず、歳をしたら生活保護だ!』と思う人が増えても当然でしょうね。そういう制度自体を変えなきゃムリだろうし‥‥

というコトで、消費税の増額は仕方ナイかなとも思うのですが、取った税金の使い方がメチャクチャ。イラナイ施設を作りたがったり、政権に近い人ほど税金の恩恵に与れたり‥‥

景気が回復して、企業から税金が貰える時代になったら、そちらは減税しようとか、なんだかオカシクありませんか?

銀行からの政治献金も一昨日の午前中に再開してもらって良かったと言ってたら、午後に首相が遠慮と言ったとかでとりあえず延期されたみたいですが、何十億という借り入れ金が自民党にあるのですから、それを返さず、逆に増額して貸して貰えるのなら、別に今、献金を再開して貰わなくても、将来借金を少しづつ棒引きして貰えれば、同じコトですよね。

大企業だけが優遇されて、中小企業は貸しはがしされてツブレテいく。

薬剤師の従兄弟に、漢方の中堅メーカーがダメになったと聞きました。設備投資あたりで行き詰ったのだと思うけど、とにかく危ない時に手を貸さずに、回収に銀行は動くので、なんとか存続させてやろうとか思わない時代にマスマスなって来たみたいです。

昔からイギリスで「晴れの日に傘を貸し、雨の日に傘を返せと言うところ」と言われているのですから当たり前かもしれませんが、「空き地にアパートを建てろ建てろ」と言うから、建てたんだけど、何年かして土地の値段が落ちて、担保が一千万円ホド足りないというコトになったら、その分を積んで欲しいと言われ、それが出来なかったからアパートを担保として即、取られて売られたなんて話も聞きました。

ウマイ話に御用心というのは、相手が誰であれ気をつけろという意味なのかもしれません。  
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2006年12月20日

希望こそが未来を開く

パンドラが箱を開けて災いをまき散らしてしまった後、閉じた箱にかろうじて残っていたのはエルピス(希望)だけだったという神話の時代から、我々が生きていくのにどうしても必要なのは、富ではなくて「希望」なのかもしれません。
希望の心理学

アフリカのタンザニアで野生チンパンジーの生態を研究した学者として有名なグドール博士の言葉です。

どこの国の若者も将来に希望をもっていないことに気づいたのです。彼らに(注・誤植で「は」なのでは?)こう言いました。「私たちはみんな、ひとつの大きな船に乗っている。未来に危険が見えたから舵を切ったけれど、もうおそすぎる」と。
でも、想像して下さい。地球上のすべての人たちが「私のすることなんかたいしたことない。私ひとりがやったって、どうってことはない」と考えてごみを捨てたら、六〇億の紙くずのごみが出るのです。
これを逆に考えてみましょう。六〇億の人が、何かを変えるために自分の身近なところから行動したとしたら。そうすれば、私たちの船の進路は少しずつだけど、必ず変わるのです。

そして、中国の文学者魯迅の言葉。『故郷』という短編小説の締めくくりの文章です。

思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

希望した人生と似た人生を歩む人が多いように、絶望の中からは何も生まれてきません。どんなに大変だとしても遠くに希望の灯りさえ見えれば、人間は耐えていけるものです。

たとえどんなに小さな希望でもイイから、心の中を明るくさせて生きていこうではありませんか!!  
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異分子こそ目配りを

おはようございます。自然に低体温療法みたいになって、生還された方のニュースを聞いていると、人間の蘇生力は計り知れないものだと思います。

そういった意味で、ホームレスを死亡させた中学生達の更正も、奇跡的なコトがなければ無理だとは思いますが、適切に行って欲しいと思います。
ヤンキー先生の教育改革―すべては子どもたちのために
義家さんの本は何冊も読みましたが、いじめに対する会議の話でも、「クラスをダメにする原因のワル」は別にして排除というような話をしているのを聞くと、今の自分の地位にいられるタメに他の人々がしてくれたコトに対して、どう思っているのだろうと気になります。

他人のあらさがしをしたいワケではありませんが、「十七歳まで暮らした長野は、私が犯してきた罪と悲しみがたくさん埋まっている場所、この地を踏むだけでも、私にはかなりの勇気が必要だった。まして、そこで『子どもの教育』を語るとなれば並大抵の覚悟ではすまされない。素直に「ごめんなさい」と謝ったり、「ありがとう」と感謝することができけばいいのだろうが、なかなかそういう気持ちにはなれなかった。だから、長野を避け続けてきた。」とあって、でも、講演しに行くのですが、「(十六年を別の場所で送っていたから)それで、「禊(みそぎ)」が済んだ、というわけでは決してないが、そろそろ故郷の呪縛から解き放たれてもいいだろう。どんなに悲しい歴史が眠っていようとも、そこを避け続けているうちは新しい一歩を踏み出せない‥‥」というくだりに、『自分の犯した罪で、人生を変にさせられた人の存在があるかもしれないという認識が、薄くないか?』と思ってしまいます。

少し前に悪いコトをする人間は、自分の罪の重さを深く考えていないから、罪を繰り返すコトが出来るという話をしました。確かに、今は昔のようにヤンキーではないかもしれませんが、考え方が表面的になり過ぎてないでしょうか?

義理の母親を実の母親だと思っていたのに、違うと判ってから荒れた日々のコトを書いた本も読んだコトがありますが、その時も、『確かに可哀想だけど、当たられた人はもっと可哀想だっただろうという後悔の念は?』と思ったので、前の「犯罪を繰り返す心理」についての話を読んだ時には、加賀乙彦さんの「宣告」と義家さんの荒れていた時代を書いたモノを思い出しました。

せっかく、教育に発言出来る立場になったのですから、自分の過去が痛みを伴うとしても、一つ一つをちゃんと振り返って、本当にツライ「加害者になる人を救う教育」を考えて欲しいです。加害者が救われれば、被害者は発生しないのですから!!  
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2006年12月19日

教師は大変‥‥

さて、今度は教師の側からの問題提起です。著者は塾が専門のようですが、先生方のスケジュールにも精通されているようで、会議や報告書でヘトヘトになっている先生の日課も理解できます。
校庭の片隅でバカと叫ぶ―子どもを追いつめる無責任教育
ともあれ、今の子供達の大変さも判っていらっしゃいます。今朝、「朝ズバッ!」で静岡の変な中学教師にボロボロにされた元中学生のコトをやっていましたが、ああいう変な教師をのさばらしている教育委員会に驚きです。それにしても、卒業までズッと耐えずに、早く弁護士とかに相談した方が心の傷も浅かっただろうにと気の毒になりました。今となっては、裁判である程度の金額を手に出来たとしても、過ぎ去った時間は帰ってきませんから‥‥

英語が出来ないのに英語教師になってる先生とか、「南極には雪がたくさんあるのに、なぜ降水量が少ないのですか」という中学生の質問に「雪は降水量にふくめないから」というトンデモ回答した社会の教師が存在するとか‥‥オイオイ。そういう時は、せめて「理科の先生に聞くように」と逃げればいいだろうに、そんな知恵も回らないのだろうか?

「金で学力を買う」コトが横行している時代に、精神論で教育が良くなると思っている人々がトップなんだから無理もナイが‥‥

そんなコトは無理、と思うトコもあるけど、本音で書かれているので、読んでいてとても気持ちがイイ本です。

「部活動はし過ぎ」という指摘は正しいと思います。今は、勉強がダメならそれ以外でと過熱していますが、得意なものがある方がイイけれど、何をやらしても一番は無理という子もいたりするワケで、ビリでイイと開き直られても困るけど、プロでも目指しているなら別ですが、中学あたりのスポーツは「楽しむ」ものだと思います。

過度の練習で身体を壊してしまったら、長い人生にとって悪い影響があると、そんな身体を触っているから思います。「過ぎたるは及ばざるが如し」というコトで、身体を壊すほどやるなら、運動は害になるとワタシは思います。プロならともかく、アマチュアは身体を大事にして欲しいと思います。  
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「ひりこもり」もイイ、でも‥‥

おはようございます。昨夜の本は一回限りのつもりでしたが、少し書き残している部分もあり、今朝見直したら、取材した著者の「後書き」をうっかり飛ばして読んでいたのに気付いて、『ちょっと、それは甘いんじゃ‥‥』と思ったので、もう少し。

「喰える者、働くべからず」というのは、「働くな」と言えば人間は「働きたくなる」という反語の意味での使用ならいいのですが、食べさせてくれる親は「何時までも生きてはいられません」。我が子のタメに、生きていてはあげたいんだけどね。

「親が死んで食べられなくなったら、死ぬ」という短絡的な考え方をするなら、それも仕方ナイですが、それでは「何のタメの人生」だったのか?、「一生、親に支配された子供」で終わるつもりなのかと言いたいです。

歳をして思うのは、二十代のコロと、今では身体の疲れ方が全然違うこと。バブルの時代が二十代だったからこそ、メチャクチャ忙しくても大丈夫だったので、今、当時の様に忙しかったら、命が危ないと思います。

親が死んでから、「生きるタメに働く」のはシンドイことだというコトだけは、声を大にして言いたいです。人生の晩年になってからでは、遅すぎるから‥‥

ともあれ、再起しようとする人達に、解説の精神科医の方も書いてますし、読んでいても当然思いますが、「インターネット」が「ひきこもり」を救う可能性があるというコト。無論、「インターネット」は「害」もありますが、膨大な情報から「必要」なものを選び出すコトが出来ることが、「人生の第一歩」になるのではないかと思います。

そして、何より精神科医などの専門家で自分に合った人を見つけること。これが一番です。友人が見つかれば、なおイイでしょう。バーチャルだって、友人はイイものです。実物とは違うかもしれませんが、それはそれで割り切っていましょう。

人間には、色々な部分があり、イイ人の中にも、悪い部分もあるのです。そう思うコトが出来て、自分にも他人にも優しくなれたら、人生はズッと楽になると思います。  
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2006年12月18日

私がひきこもった理由

色々な教育に関する本を読んでますが、久々のホームランといった感じです。
私がひきこもった理由
確か前に「ひきこもりなんてしたくなかった」という本についても書いたと思うのですが、実話の力を感じます。訳知り顔の教育論なんかを読むよりもズッとタメになるんじゃないかと思います。

とにかく、出て来る人達は、親の話をあからさまにはしないのですが、その端々に「親のタメに無理して生きて来た自分」というものが、見え隠れするので親にしてみると、『気を付けよう』と思うコトが一杯あります。

そして、この本に出て来た人々の多くは、かなり優秀だった人達が多く、心優しかったがゆえに、「人生の競争」の世界から、身を引かざるを得なかったんだなと思います。会社に勤めてから、精神的問題を発症する人も多くなっている昨今ですが、早期教育の是非など様々な問題が溢れています。無論、人間の耐性は個人差があるので、一概に述べるコトは出来ませんが、子供自身の選択の幅が狭められてしまっていると、欲求の発散がしにくくなり、それが沸点に達したのが、「ひきこもり」だったり、「事件」だったりするのだろうと思いました。

「いじめ」が原因になったりもするのですが、どうしてもその裏に、「自信の無さ」や「自己評価の低さ」そして、「親との距離感」も問題の様に思います。専業主婦のゆえに子供をがんじがらめにしてしまうとか、忙し過ぎて子供のSOSに気付かない親とか‥‥とにかく、「親の理想の子供」像がスゴ過ぎて、ギブアップしないと自分が生きていけないトコまで追い詰められた人が、とても多い。

それでも、この本に載っている人は、取材を受けられたのですから、まだイイ方なのだろうと思います。こうした本をよんでから、日本の教育の問題点を話し合って欲しいのですが、「国を愛せば、教育は良くなる」という短絡的な考え方しか出来ない人が多い日本では、無理な話かもしれません。

こういう先生は良かった悪かったという話を参考にするのが一番の教育改革でしょうね。ともあれ、先生方はこうした本を読むヒマもナイかもしれませんが、「失敗は成功の母」です。教師の側からの教育論よりも、おそらくズッと教育をどうするべきかを考えさせてくれる本です。  
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冬を乗り切る緑黄色野菜

おはようございます。長野も雪です。寒いので、何時ものパソコンと違うのを使っては、うっかり消すという悲劇を繰り返しています。

ノロウィルスで死亡者も出て大変な騒ぎになっていますが、過去ログにもあったように「五苓散」が効き目を発揮します。

ちなみに、「吐く」という行為は、体内の悪い物質を外部に出そうというコトなので、水分補給や栄養補給は大事ですが、「0-157」の時と同じく、「吐き気止め」は逆に危ない可能性が高いと思います。

さて、本日の「栄養的に完成度の高い」野菜は「小松菜」。無論、「日本農業新聞」の「アンドユー」の「やさい図鑑」からです。

.ルシウムがホウレン草の約4倍も含む‥‥骨や歯を丈夫に

鉄分でもホウレン草より多い‥‥貧血の改善や予防に

βカロテンとビタミンCも豊富‥‥皮膚や粘膜を丈夫に。免疫機能を維持。生活習慣病の予防に

豊富なビタミンで、カルシウムの体内吸収を助けるスグレモノです。

加えて、葉の柔らかさ、あくやくせがナイこと。

洗ったら、すぐに料理が出来る手軽さがウレシイ。

「たんぱく質との相性が良い」ので、おひたしだけでなく、油揚げや豆腐鶏肉など、たんぱく質を含む食材と一緒に調理するとなお効果が倍増する。

冬場を乗り切るのは、健康な身体をまず作っておくのが、一番です。

具合が悪くなってから、何かをするよりも、病気になりにくい身体にしておく方が断然良いのです。

「未病」つまり、病気になる前こそ大事にしようという漢方の考え方を見に付けて、寒い冬を乗り切りましょうね!  
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2006年12月17日

偏見を捨てよう

人間は誰しも、自分の属する民族が「世界で一番優秀な民族」であるという幻想を抱きたくなるものです。そして、各地にそうした思想が過去から延々と続いて来ているコトも事実です。

人種偏見は、何処にも存在し、なかには科学的にアングロサクソンの人種的優越を証明しようとしたり、骨相学や人体測定学を熱心に研究する学者もいたそうです。

犯罪に走る人間は、遺伝的素質、環境、家族、学校などの社会など、全てが裏目に出た時と言われているように、優秀な人間も素質だけで光るハズもナク、教育や社会に左右されるのは、自明の理です。

全ての人種に対する偏見が無くならない限り、戦争は無くなりにくいと思いますし、アメリカが間違っている人々を教え導く存在であると、自分達を過大視している限り、アメリカ発の戦争は続くと思われます。

「愛国心」を鼓舞し、民族主義に走るのは危険なのです。全ての国の人々に、それぞれの国に合った政策が必要で、他国が勝手に政策を押し付けるのは良くないということです。

ちなみに、沖縄は日本の0.6%の面積しかナイのに、75%の米軍基地があります。アメリカの雑誌『タイム』が沖縄の米軍兵士による強姦事件をとりあげて、容疑者が黒人だから騒いでいる、それは人種差別だと言ったことに対して、二冊の本とも言及していますが、当時の沖縄の新聞しか読んでなかった人は、その事件の容疑者が黒人とはそれまで知らなかったということもあり、差別されていると思うと、全てそう受け止めてしまうという場合もあると思います。

民族に関わらず、優秀な人もいれば、下賎な人も存在します。その二つを分けるものの一番は「教育」だと思います。最難関校を出たから、人間的に優れているというものでもありません。本当に素晴らしい人間かどうかは、他人の気持ちを理解できるかどうかで決まると思います。

そういう意味でも、日本の教育も少し違った方向へ向かっているので、「戦争好き」なアメリカの後を付いて行くのは大変危険です。

アメリカのように戦争ばかりしている国では、男の子が大人になるということは人を殺せる人間になるということです。

そういう国になるコトが幸せなのかどうか、「教育基本法」が改正されて、「憲法」にもその風を吹かせようとしている人々の力が強まっている今だからこそ、じっくり考えてみるべきではないかと思うのですが‥‥
  
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「風と共に去りぬ」とは‥‥

おそようございます。「風と共に去りぬ」は、ワタシの青春の愛読書であり、多少なりとも原語で読もうと努力したコトのあるホド熱狂した、唯一の外国小説です。ゆえに下の本を、昨夜の本の話と類似した問題があるというコトを期せずして、同時に借りて来ていたのです。
「風と共に去りぬ」のアメリカ―南部と人種問題
ちなみに大ファンだった人間として、弁護しておくと、この小説は「教養小説(主人公が成長する物語)」のジャンルに属する小説で、続編の「スカーレット」を書いた著者が、鼻持ちならない主人公だと感じ、続編でよりしっかり成長させている点を見ても明らかで(しかも、そちらの話の方がとてもドラマチックな話なのに、本編ほどは読まれなかった)、でも、だからこそ、欠点だらけの主人公に世界中の皆が心惹かれるのであって、これをもって歴史書との混同をするとは思えませんが、黒人の人にとっては「反アンクルトム小説」として憎悪の対象になっているのだそうです。

特に、マミーとプリシーについてが問題とされているのですが、マミーは全てを許し受け入れてくれる「本物の母親としての存在」であり、プリシーは黒人であるコトよりも「教育の必要性を示す象徴」として捉えていたので、この本を読むまで、人種問題という考え方には、行き着きませんでした。

しかし、南部のアメリカ人が「古き良きアメリカ」を思い出すよすがとして、この小説を読んでいる可能性は無論否定されるわけではナク、日本の第二次世界大戦に対する思いと、南北戦争に対する南部人の思いをダブらせて考えると、とても良く史実を歪曲したい人の気持ちが理解出来ます。

しかし、史実と小説は別物であり、だからこそ、こういう考えの人間もいるという事実にはなりますが、その二つを混乱させてしまってはイケマセン。

ともあれ、日本という国も、戦後の農地解放までは、「奴隷制度」と似通った制度が存続していたのです。そして、そうした恩恵を享受していた人々の子孫が、やっぱり現在の世の中でも、優位に存在しているのですから、「他人を安く雇用するコト」が、「一番の金儲けの道」であるという金科玉条は存続しているでしょう。現在の格差社会は、過去の「負の遺産が変形」して存続しようとしているだけです。

なぜアメリカはこんなに戦争をするのか」と上の本は、アメリカという社会を理解するのに、とても有効なので、その辺について、もう少しだけ書かせてください。終わってから、「食べ物が作る健康」シリーズに行きます。  
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2006年12月16日

「歴史」とはどういうものか

米国人から見る日本の歴史観というものも、日本人が思うものと違った目で見るので、『ナルホド!』と思うコトがあります。

1999年と2001年のピュリッツァー賞は、昭和天皇の戦争責任を注意深く実証した歴史書二冊、
敗北を抱きしめて〈上〉―第二次大戦後の日本人
と、ハーバード・ビックス著『昭和天皇』(邦訳・講談社)だったという。

日本の中に、第二次世界大戦は、日本の侵略戦争であり、隣国の人々の意思に反して植民地にしたり、たくさんの女性を強姦したり、性的奴隷にしたり、民間人を数多く殺したという内容を学べば、若者は嫌な気分になる。南京大虐殺はデッチ上げで、中国・東南アジア侵略は西洋植民地主義からの解放になっただの、従軍慰安婦はいい仕事をして幸せだったという様な教科書を読めば気分が良くなる。以上の見解を述べている人は存在している。

しかし、アメリカの若者だって、アフリカから連れてこられた奴隷の生活はそんなに悪くなかった。フィリピンを植民地にしたのでフィリピン人の生活は進歩した。長崎と広島を核攻撃したことは「何百万人の命を救った」という教科書の方が気分がいいし、ドイツの若者も、ナチ政権は結局そんなに悪くなかった、ホロコーストなど決して起きなかったと教える教科書を好むであろうと。

歴史書というものは、読者の気分は関係ナク、事実を書くべきなのだ。嘘偽りのない記述を読むのは耐えられないとしても、恐ろしい出来事があったと伝えれば、悲惨な過去を繰り返したいとは思わなくなるだろうからと、著者は言う。

歴史は為政者にとって、都合の良いコトばかりを書きたがるものだ。しかし、そんなものだからと歴史を学ばなければ、より新たな過ちを犯しかねない。

ワタシが古代史を特に好むのは、「真実はドコにあるのか?」と、 ミステリーの様に、謎が幾つもあるからだ。しかし、現代に近い歴史まで、何が嘘で、何が真実なのかと考えたくはナイ。まやかしの歴史の上には、砂上の楼閣しか建たないからだ。  
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「正義の戦争」とは?

おはようございます。では、続きにまいります。

「国際法の父」オランダの思想家グロティウスは法的に正しい戦争と正しくないものを区別しました。

「正義の戦争」と認められる二つの条件。

一つ目は、戦争の「目的」です。
ただ「気に食わないから」というので他国と戦争するのは許されていません。国連憲章で許されているのは自衛戦争だけです。自国が侵略されたときに防衛のために戦う。それは許されています。同じ原理で、植民地からの独立戦争も許されています。過去の侵略に対する防衛と理解されるからです。

二つ目は、戦争の「方法」です。
戦争を始めるには宣戦布告しなければならないとか、非戦闘員を殺してはならないとか、残酷な武器の使用も禁じられています。毒ガスとか。敵の兵士を捕まえたら、捕虜として扱い、殺したり虐待してはいけないなど、たくさんのことが細かく規定されています。

これらをクリア出来たら、「きれいな戦争」だということです。しかし、「きれいな戦争」なんてあるのでしょうか?
飛行機が武器として使われて空襲は当たり前の戦術になりました。非戦闘員をも無差別に殺してしまうことは必然です。

これを「安全」とか「安全保障」を中心に考えると、違った切り口があると著者は言います。

軍隊は人々の安全を守らず、かえって危険だというのです。二十世紀、国家によって二億人くらい殺されているとの説があり、その学者によれば、大半は敵の軍隊ではなく、味方の軍隊によって殺されているのだそうです。もしかすると、自国民から政府や軍隊自身を守るためにあるのかと思うほどだそうです。

軍隊を持てば、クーデターをおこして軍事政権になる可能性もあります。強い軍隊があれば、それを使いたくなる誘惑に勝てなくなります。そして、戦争が起きる。日本人が戦争で一番多く死んだのは、軍事力が一番巨大だったときのように。

そして、戦争は自国に帰ってくる。何故なら、人を殺せてこそ、戦争は成り立ちます。殺人が悪だと思っていたら、戦争は出来ません。でも、「殺人は正義だ」と洗脳された人々が、自国に帰ったら再び殺人は悪だと、思えるかどうかです。帰還した兵士は、シニカルにもニヒルにもなり、犯罪者にもなりやすければ、ノイローゼになったり、ホームレスになったりします。海外の戦争が、国内に影響する場合もあるのです。

さぁ、皆さん、今の世界で「正義の戦争」だけが行われていると思いますか?  
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2006年12月15日

テロに対する国家テロ

「民間人を攻撃するのはよくない」というのは、当然だったのですが、1937年のナチス・ドイツがスペインのゲルニカを攻撃したのを始まりに、空襲というものは老人や女、子供の区別なく無差別に一般市民を殺します。この空襲でヨーロッパは大きなショックを受けたものの、数年後、イギリスとアメリカが比較にならないほどの空襲をドイツと日本に行って以来、それが戦争の「当たり前」のやり方になったと著者は述べます。

現在の大統領は「テロに対する戦争」を「無限の正義」と名づけました。無限の正義は神の領域で、人間が触れるべきものではなく、これを容認してしまうと、戦争法も国際法も条約も国連も全部無視していいことになるのでとても恐ろしい。「無限の正義」とは「無限の暴力」になりやすく、「テロに対する戦争」は「テロに対する国家テロ」になりやすいという。

一般市民を攻撃したり、空襲したりすることは犯罪、つまり殺人罪、である。今までもそうだったし、今もそうだし、これからもそうなのに、「勝てば官軍」で裁かれないだけなのだ。

米政府は国際法の根本的な原理を次から次へと犯している。

先制攻撃をしてもよいとか、アフガニスタンのような、戦争をするつもりも準備もない国を侵略してもよいとか、戦場で捕まえた人を捕虜として扱わなくてよいとか、外国に軍隊あるいはCIAを送って、米国に入ったことのない外国人を「逮捕」して牢屋に入れてもよいとか、そうやって牢屋に入れた人の基本的人権を守らなくてもよいとか‥‥

戦争では、証拠がなくても、裁判がなくても、判決がなくても、容疑者を殺せる。米国と戦争してないイエメンにCIAの飛行機を派遣して「容疑者」を殺したように。

国際刑事裁判所を創ろうとしても、米政府は批准したり、協力しないと断言している。その理由は、そのような裁判所ができたら、米軍や米政治家が戦犯として訴えられる可能性があるからだ。従来の国際法に違反している、つまり戦犯であるとの認識はあるということだ。

ひるがえって、日本国にそうした認識はあるだろうか?

ただ従順にアメリカの後ろを付いていくだけでは、「世界に尊敬される国」になどナレナイであろう。別に常任理事国になって欲しいとも思わないが、世界各国にバラまき政治をしたところで、「日本を常任理事国に」と押してくれた国は少数だったではないか。真実を見る目があるとは、とても思えないのですが‥‥
  
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戦争好きの国、アメリカ

おはようございます。教育基本法も改正されそうになってしまっていますが、お上の言うコトを従順に聞く人間を作るというのは、トップを目指す政治家にとっては、ゼヒとも通したい法律でしょう。

そして、最終的には「憲法改正」を目指し、戦争の出来る国になりたいのでしょう。戦争ほど儲かる商売はありませんから。

ともあれ、アメリカの今の政策について、我々は本当に理解しているのでしょうか?

日本に住んでいるアメリカ人にアメリカの話を聞かないとよく判りません。日本のマスコミはアメリカについて、正しく我々に伝えているとは思えないからです。
なぜアメリカはこんなに戦争をするのか
テロとの戦争は正しいのか? そもそも「9・11」とは、何だったのか? をヤサシク解説してくれます。

日本では判りませんが、今回の民主党が共和党に勝ったのは、格差社会だけでなく、イラクを侵略した理由はすべて嘘だったということ。これがボディブロウになったのだと思います。

「イラクはアルカイダと関係がある」という発言は嘘。

「イラクは大量破壊兵器を持っている」も嘘。

「イラクには毒ガスや生物兵器を作る工場がある」も嘘。

「イラクは核兵器を作ろうとしている」も嘘。

アメリカでは、「He Lied, They Died(彼が嘘をつき、彼らが死んだ)」というバッチがあるそうです。

政府のために、一般の国民が殺されてるのです。

政治家が小さな罪を犯した場合、みんな怒る。なぜかというと、自分がそれぐらいの罪を犯すことが想像できるから。

しかし、政治家が政治家しかできないような大規模な、歴史を変えるような、災いのような罪を犯すとき、自分の想像力を超えるので、怒らないことが多い。怒らないというよりも、信じたくないと思うのだ。しかし、もうそうは言えないと思ったのでしょう。それが、この前の選挙に出ているのだろうと思います。

日本が、戦争で再び死者を出さないタメにどうすべきか、この本と共に考えて行きたいと思います。  
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2006年12月14日

詐欺の手口は様々

さて、犯罪者の心理を学んでしまうと、矯正されない限りは、血も涙もナイことを平気でやりかねない人間であると理解されたと思います。そういう新たな目で見ると、今、流行っているオレオレ詐欺などへの注意が必要かと思います。ついでに借りた本がこちら、
「詐欺」―悪(ワル)の手口と撃退マニュアル
もっと違った場所でその頭を活かせばいいだろうにと思うほど、様々な手口があるものです。

中でも、不動産関係の話を読んでビックリしました。

隣の土地を見せてイイ場所だと思わせて、崖地を売ったり、日当たりのイイ土地と思わせて日当たりの悪い土地を売られたり(土地の売買では必ず物件の写真を貰うべきとのこと)、別のとんでもない土地を売りつけられたり(ワザと色々な土地を見せておくので詐欺との立証が難しかったりするらしい)、河川敷を普通の土地と偽られたり‥‥実に手口は様々だ。その他にも、買うといって御金は渡さずに登記を変更されたりと、普通では思いもよらない手口があり過ぎ‥‥不動産を売買する時は、本当に信頼の出来る相手でナイと、とても恐ろしいです。

と思えば、動産だって、宝石をすりかえられたり、ニセの骨董品や贋作をつかまされたり、粗悪品をつかまされたり、御金は後で払うと言って持ち逃げされたり、博物館の鑑定書を取るからと言われて預けたら返さないとか、本当に色々なコトがあるようです。

親戚の弁護士が言ってましたが、裁判に勝っても、相手に資産が無ければどうにもならないコトもあるそうです。

年の瀬も迫り、何かと物騒な時期になっていますから、やっぱり「ウマイ話には注意が必要だし」、「困った時や迷った時は、一人で判断しないコト」、「いざという時に信頼の出来るプロと仲良くしておくコト」ではないでしょうか。とにかく、何かとトラブルになった時に、「では、顧問弁護士と相談させて頂きます」と言うと、相手に非があると思われる場合は、ほぼそれ以上の無理難題は言われません。

親戚にいない人も、友人とか、確実な知り合いの知り合いとかで敏腕の弁護士さんを見つける努力をしておいた方がイイみたいです。下手な弁護士だと、相手に抱きこまれて‥‥なんてコトもあるみたいですから‥‥

「転ばぬ先の杖」というのは、本当に大事です。このような本を読んでいると人間不信になりそうですが、「欲」を出すからつけ込まれやすくなりますし、「大金」や「不動産」を所有するから心配になるので、普通に注意して暮らしていれば、さほどのコトはナイと思われますが、ともあれ、世の中には「自分とまったく違う人間が存在している」というコトだけは、心の片隅に置いておくべきだと心から思いました。  
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他人と調和して生きる

おはようございます。いよいよ、最終段階です。

犯罪者がなかなか変わらない最大の障壁は何でも人のせいにしてしまうという考え方の癖です。

人を批判する前にまず、自分に批判の目を向けなければならない。

「自分以外は誰でもだます」といった態度から、「分かち合う方法を身に付け」、チームワーク、忠誠心、信頼感の世界へと足を踏み出す必要があります。

人と人との関係はギブアンドテイクだと知り、人の話を聞き、人に教わらなくてはならない。ものをたずねるのは、無知を認めることかもしれないが、何でも知っているふりをするより、ずっと賢明なのです。

些細でも新たな目標を作り、それを達成することは励みになります。

誘惑されそうになっても、関心をそらすことを身につければ、自分自身をコントロールできます。


人生は、向上しようという努力を止めてしまえば、堕落の道が待っています。それを他人が押し付けるのではなく、自らが気付かなくてはなりません。

人類の文明の存続を可能にしてきた道徳観を身につけ、人を傷つけずに生きる術を教えることこそが、犯罪を減らすのに役立ちます。

多くの犯罪者は、良識があるようなふりをして、その裏でまんまと犯罪行為をやってのける道があると信じていますが、そのような道は無いのだと明確に理解してもらう必要があります。

「欲望をそのまま通せるわけではない」という単純なことを教えるために、反社会的な子供は生きる方便として嘘をつく、だましたり、脅したり、暴力をふるって、自分の意思をむりやり押し付けるが、責任はとらずに、人に責任をなすりつけ被害者のふりをする。しかも、意外にもろく、些細な失敗が、自尊心に壊滅的な打撃だと受け取る。だから、カッとなりやすいと知ること。捕まるかもしれないということは理解していても、当座の目的を追求する時は、そうした知識を締め出せる冷酷な能力を備えていると理解しなければなりません。

恐るべき暴力行為をする子供は、注意が必要だ。反社会的な人格を持つ子供が破壊活動を自然に止めることはない。犯罪者になりそうな少数の人間を見極め、手遅れになる前に何らかの手を打つことこそが大事だ。

という提言を読んだ時、「いじめる子供」をどうすべきか、答えは自ずから出るでしょう。問題のある子供に必要なのは、「排除の論理ではなく、社会で生きる責任を教える」ということに尽きると思います。  
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2006年12月13日

恐怖心を学ぶ

大阪の姉妹を殺害した犯人に死刑判決が出ましたが、彼が母親を殺した時に、今、話している様な矯正教育をされていたら、無関係の姉妹が巻き添えにならなかっただろうと、とても残念です。

恐怖心や罪悪感というものを、犯罪者は真に理解してないと著者は言います。「恐怖心や罪悪感は、人に対して配慮したり責任ある判断を下したりするための誘因になる。だから、犯罪者を変容させるには、恐怖心や罪悪感を植えつけることが絶対に必要である。人生には恐怖がつきものだということを、犯罪者は学ばなくてはならない。人は恐怖心があるからこそ、ダイエットに励む。恐れるがゆえに運動に精を出し、恐ろしいから安全運転をする。恐怖心はよりよいことをするための誘引なのである。人を傷つけるのがこわいから慎重に行動するし、将来に不安があるから家族や自分のために、生命保険に入り、貯金をし、定期的に健康診断をうけ、車を整備するなど、やらなければならないことをやるのだ。」

確かに、言われてみればその通りです。

恐怖心や罪悪感がなければ、責任ある人生を送ることはできない。思慮分別のない考え方と徹底的に向き合い、そのうえで、正しい考え方を必死に理解し、そして最後にそれを実行に移せるようになってはじめて、恐怖心や罪悪感が芽生えます。

分別ある人間になっても、悩みの種は尽きず、死なない限り緊張感からは解放されません。

行き当たりばったりの生活を送っていてはダメなのだと気付き、将来について考えること、高まる欲望のままにしたら、人生を投げ打ち、どん底まで落ちてもいいのかと、自問自答すべきなのです。

想像するだけで済む人間と、浮かんだ考えを行動に移すのは別です。その切り替えが出来ない人が、犯罪者になります。モラルの点検をして、自分の生き方の反省をする習慣がなければ、少しも進歩しません。かなりの忍耐力も要求されますが、生きること、それ自体、相当な忍耐力が必要です。

人生とは何なのか? 自分はどういう人間なのか? 人に何を期待するのか? どういうふうになりたいのか? 人にどういう影響を及ぼしているのか? 自分の思考についても考えることは重要な意味を持っています。

傷つけるのは、どういうことなのかを学ぶことは、自分自身を知るために絶対に欠かすことは出来ません。単に身体的な危害だけでなく、金銭的な損失、精神面での痛手、犯行後に社会にみなぎる犯罪を恐れる風潮や、人生をめちゃめちゃにされる人もいます。些細な法律違反でも、その影響ははかりしれません。

とりあえず、本日はここまで。  
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再生には何が必要か

おはようございます。とはいえ、コトはそう簡単に進むわけではありません。行きつ戻りつしながら、治療プログラムは進むのですが、そのイチイチを我々が知っても、どうにもなりませんので、興味のある方は本を読んで頂くとして、「何に注意をすれば、そういう問題の芽をつめるのか?」という問題に絞ってみます。これは一般の人の精神面にもかなり有効だと思います。

,劼箸弔琉稟燭別の違反につながる可能性を理解する
ひとつくらいの例外は大丈夫と思っていると、連鎖する可能性がある。

他者を言い訳に利用してはいけない
「誰でもやっている」、「みんな似たようなもの」こういう言い訳はよくある。犯罪者は社会の腐敗を糾弾し、自分と他者の違いは、捕まっているかどうかだと言う。確かにそういう現実がある。しかし、だから無責任に生きても大丈夫というコトとは違う。

時間が掛かっても、するべきことはする必要性を認識する
自分のやりたいようにやり、手っ取り早い方法をしてきた人間に、骨の折れる単純な方法はツライ。しかし、責任を果たす義務は他人にではなく、自分にあると理解させる。

づ椶蠅鬟灰鵐肇蹇璽襪垢
現実的な自己イメージや世界観を持ち、どんなことがあってもくよくよせず、うまくいかないときも建設的に対処するようにしむける。すぐにかっとせず、人からの批判を糧にし、拒絶されてもうまく処理し、逆境を生き抜いていく。頭にきそうなコトは、先に想定して、困る可能性のシュミレーションもしておけば、かっとならずにすむ。
良識ある人間は、たとえ怒っても、犯罪者のように悲惨な結果を招かない。他人に多大な被害を及ぼすのは間違いなのだ。

ゼ己イメージを修正する
自分はあがめ奉られるべき君主だという自己イメージは捨てるべき。相手の立場に立ったものの考え方が大事。人にフェアプレーを求めるなら、自らもそうすべきだということ。

もう少しだけ続きます。  
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2006年12月12日

人は善にも悪にもなれる

このプログラムの核心に据えられているのは、人は善と悪の間にあって、どちらでも自分で自由に選ぶことができるという前提です。

さて、続きです。

医師は犯罪者の不安感や自責の念を和らげるどころか、ますますかきたて、精神科医でありながら、犯罪者の感情にはまるで興味を示さなかった。彼の治療プログラムでは、犯罪者が自分自身について「いい気分を味わう」こともなければ、自分自身を信じさせるのではなく、自分が変わるためには、自己嫌悪の念を募らせる必要があった。

犯罪者は面食らったが、医師を信じ、このプログラムを理解して実践する以外に取るべき道はないと感じた。「誠意をもって努力するよ」と言ったら、「誠意のない努力なんてあり得ないよ」ときっぱり指摘された。そして、「君はプログラムを試していて、思い通りに運ばなければ、自分は努力したという信念を曲げずに、好き勝手するだろう」と分析され、仮面をはぎ取られ続けた。

阿修譴ら、さまざまな変容の段階の五人の男たちの治療グループミーティングに参加を認められた。そのミーティングは、自由なデイスカッションの場ではなく、医師が取り仕切るのだ。

吋哀襦璽廚離瓮鵐弌爾蓮△劼箸蠅劼箸螢瓮發鮓ながら、過去二十四時間に考えたこと、同じ病棟の他の患者のことだったり、看護スタッフや家族のこと、テレビで放映された暴力映画だったり、このグループ、医師について、自慰のことまで報告し、他のメンバーは黙ってじっとこれを聞いている。医師は、ひとつの考えや連続した考えに対してコメントし、それがデイスカッションの焦点となり、報告したメンバーだけでなく、全てに正しい考え方を当てはめていくのである。

佳召糧蛤畆圓ら手を切り、ドラッグと決別し、禁酒、良識ある性的関係を理解するまでは禁欲させられ、グループミーティングには毎日出席、退院後もグループへの参加が義務づけられ、存在することさえ知らなかった問題に直面し、自分が激しく管理されているようで、いらただしくなっても、他の選択肢はなかった。新たなスタートを切るしか、将来の不安を払拭出来なかったからである。

長くなるので、本日はここまで。ともあれ、人間の善悪はその人が決定するのだと考えると、世の中には生まれつきの善人も悪人もナク、教育が実に重要な意味を持っていると理解されると思います。それについては、全ての書き込みの後で。  
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犯罪者に真実を認識させる

おはようございます。うっかり消してしまったので、書き直ししてます。仕事の時間まで。

続きです。

犯罪者は『こいつはいつもの「精神分析医」と違う。自分の心を読める。下手したら、こんなに犯罪者のコトに詳しいのは、こいつ自身が犯罪者なのか?』と思った。

しかも、自らのぶざまな姿を描き出しているのに、自分はただそれに耐えているしかないコトも認めざるを得なかった。

医師は、生き方に異議を唱えるときも、冷静で、あざ笑うことも、脅すことも、きつく叱ることもせず、相手に敬意を払いつつ、犯罪者の鏡像を描き出した。

新しい恋人に対する誤った考えも否定された。堅気と思われた新恋人は、犯罪者の手助けをするだけでなく、麻薬を吸う「尻軽」だ。自分には何のとりえもない。

医師は遠慮せず、「君は根っからの犯罪者だ。選ぶ道は三つ。犯罪を続けてそのつけを払うか、自殺するか(そうすれば、世の中はずっとよくなるけど)、それとも文明人としての生活をする良識ある人間になるかだ」と。

犯罪者は、ココで最後の良識ある人間への道を選んだ。人間は、考えが頭に浮かんで、それから行動に移る。犯罪行動を減らすには、犯罪者の考え方を変えるしかありえない。

決して、短期間に成し遂げられるものでもなく、なまやさしくもない。昔からの思考パターンを取り壊し、新しい概念をたたきこみ、新たに土台を築いて、教えられたとおりのことを実行できるようにし、新しい構造を組み立てる必要があるのです。

犯罪者が、「責任」という言葉に、効果的かつ建設的で、人格的にも完全な人間になるために、必要なことすべてを包含したものだというコトに気付いたとき、人生に新たなページが開かれたのである。

さて、時間となりました。続きは、晩に。  
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2006年12月11日

真実に目を開かせるには

さて、寸評なしで、医師の行動を短くマトメテ書いてみます。

“蛤畆圓鵬颪Δ覆蝓◆峽が会う人ごとにその人物の品定めをしていることはわかっているよ」と切り出し、一目見た印象についてまくしたて、面接の主導権を握った。

◆嵋佑魑修い燭蟶乱させようとして君がいくら牽制しようが、言い訳しようが、何か他の手段を使おうが、そんな手には乗らないからね」と釘を刺し、犯罪者に過去の話をするチャンスを与えなかった。

自分の話を聞いて、正しいかどうか聞かせて欲しいと断ってから、「君はずっと昔から、まわりのほとんどの人間とは違った道を選んできた。秘密の人生を送って、まんまと人をだましては得意がっていた。幼いころにしょっちゅう悪事に手を出したのは、君が世の中にあわせるんじゃなくて、世の中が君にあわせるべきだって思っていたからなんだ」と。

ぁ峽は誰も尊敬してないけれど、他人からは一目置かれないと気がすまない。責任っていうのは口先だけで、実際には、どびきり成功した人間以外、ほとんどの人を軽蔑してきた。優れた才能や教養じゃあ、だれにもひけをとらないと自負しているからね。君にはすぐ傷つく「もろさ」もある。人には悪口雑言浴びせかけられるくせに、人から批判されると、ほんのちょっとしたことも容赦できない。友人の自慢話をするけれども、君は友情の「ゆ」の字もわかっちゃいない。次から次へと犯行を重ね、口ではまだ愛しているっていうけれども、奥さんや子供を顧みず、そして、見捨ててしまった。それでも君はひねくれているから、自分はまともな人間だと思っている」

グ貘入れて、犯罪者をじっと見つめながら、「そうじゃないかね?」とたずねた。

Α峅燭箸任盡世┐襪機廚氾えたら、「そういう言い方はね、世間には強がって見せているけれども、自分と立ち向かう勇気もない弱虫だってことなんだ」と指摘した。

А屬修Δな」と答えたら、「『そうかな』って言うのはね、本当のことを言って自分のイメージに傷がつくのを恐れる犯罪者がよく使う手口だよ」と言って、どんなことを話してもその人の人格が表れるものだということを、示してみせた。

この続きは明日。  
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他人は自分のために存在すると思っている人たち

おはようございます。常習的な犯罪者は、心の中で『他人は自分のために存在する』と思っているそうです。ま、犯罪者でなくても、こういう感じの人は存在してますが‥‥

とにかく、そういう存在なのだと認めるコトからしか、問題は進まないのだそうです。

著者の師である医師は、有名な精神科で成功していたのですが、五十代半ばに名士の座を捨てて、犯罪者の治療を志した時、患者は「犯罪者」ではなく、恵まれない家庭環境や過酷な社会情勢によって、心に悩みを抱えた人たちだと思い、心の葛藤を取り除いてやれば、罪を犯さなくなるだろうと信じていたそうです。

しかし、その方法ではダメだと判り、発想の転換の必要性を悟ったそうです。

犯罪者は何かの犠牲者ではナク、加害者そのものなのだというコトを犯罪者に認めさせることコソが大事なのだというコトを。

正当な理由のない非難すべき違法行為を、筋の通るように理解して、そこから何かを学びとり、同じ悲劇が将来二度と繰り返されることがないようにと願っても、解決にはつながらないのだというコトです。

犯した罪の責任は犯罪者本人にあるということを、自覚させること。

こう聞くと、「エッ!!」と思うかもしれませんが、犯罪者の思考回路には責任感が備わってないのだそうです。

あまりに残忍な事件を起こす人を普通の人は理解出来ません。だから、つい、病気の人間でなければこんなことはできないと考えがちです。

ところが、犯罪者達は、自分からふつうの生き方を拒否し、誰にでも平気でウソをつき、自ら悪い仲間に加わり、とことん学校を嫌い、マジメな仕事を避け(逆に仕事をして自分を良い人間だと偽るコトに利用する場合もあり)、他人は自分ために存在しているので、何をしても許されると誤った考え方をしているのです。

我々も、犯罪者への認識を変えないとイケナイのかもしれません。悪い子供がいたら、気の毒な環境だからと甘やかすと問題は深刻になります。そういう子供達にこそ、確かな教育が必要なのです。その方法に関する話は晩に。  
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2006年12月10日

犯罪者の心理

時々何もかも虚しくなったりするのは、つい相手と自分の気持ちの違いを認めずに、自分の考えで相手を推し量ろうとするからなんてコトはありませんか?

犯罪者の矯正には、彼等を理解しようとするよりも、彼等の誤った世界に対する考え方を正しいモノと置き換えるコトが一番だという、明確な論理です。

どうして再犯する人間が多いのか、どうして理解不能の様な犯罪が起きるのか、明快に答えてくれるので、恐ろしいホドです。
騙しも盗みも悪くないと思っている人たち
タイトルにギョッとしますよね。でも、これが事実なんですね。実際にそういう子供や大人は存在するのです。

著者は臨床心理学者で、最初は普通に相手を理解したり、犯罪者の背景がイケナイと思っていたみたいですが、どうもそんなコトでは犯罪者を矯正出来ないと考える様になったそうです。

ともあれ、こうした本をゼヒ読んで頂いて、世の中の親や教育者は、子供に正しく接するべきだと思います。

つまり、正しいと思われる矯正教育が行われない限り、悪人は何時まででも悪人のままだというコトです。

無論、自らが変わろうと思わない限り、矯正は不可能というコトなのですが‥‥

犯罪の原因を探しても、「犯罪者は、精神医学に詳しくなる」だけで、犯罪をやめようとはしないというコトです。

犯罪者の人格や生育歴を我々が理解しようがしまいが、犯罪者が悪いコトから決別しようとしむけなければ、犯罪は繰り返されるだけだそうです。

何故なら、真の犯罪者は「自分のしているコトが悪いコトとは思っていないから」。

ナルホド、そう聞かされると、無謀な詐欺事件を起こしたり、無関係の人間を無残に殺害したりする人間が存在するのも理解出来ます。

犯罪に巻き込まれないタメには、犯罪者の心理を学ぶコトも大切かもしれません。しばし、この本の話をさせてください。  
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ゴボウで体内浄化

おそようございます。久々に日曜朝に定番の「食べ物が作る健康」を書いてますね。何時も、連載してしまうので、違う日になってしまったりしてますが‥‥

というか、今晩書きたいと思っている本に早く行きたいので、昨夜の本は一回完結にしてしまったというのが真相なのですが。

「日本農業新聞」の「アンドーユー」の「やさい図鑑」からです。

ゴボウはキク科とは初めて知りましたし、薬草だったと知ったのも初めてです。

ちなみに外国ではホトンド食べられてないので、戦時中によかれと思ってゴボウを捕虜に食べさせたら、虐待されたと間違えられたなんて笑えない話を聞いたコトがあります。

しかし、独特の風味と、豊富な食物繊維で便秘解消、生活習慣病予防効果の期待もあるスグレ物なのです。

古くから体を温めると言われ、冬には欠かせない食物ですし。

不溶性の食物繊維「リグニン」は、消化吸収されずに水分を取り込み、腸内の有害物質を吸着して排出してくれる。腸のぜん動運動を活発にするため、便秘を防ぐ。

水溶性の食物繊維「イヌリン」は血糖値の上昇を抑え、コレステロール値を低下させる。

ダブルの食物繊維で、動脈硬化や高脂血症、糖尿病、がんなどの生活習慣病を防ぐ。

マグネシウムも豊富なのもうれしい。


ささがきにすると、切り口の表面が増える。その切り口に「リグニン」が発生するのだから、昔から考えられて食べられている。

卵太郎のものしり教室では、納豆のねばねばについて書かれていますが、今回、風邪を引いたのは、毎晩食べていた納豆を少しサボっていたコトに原因がありそうで、再び復活させたら(ちなみに納豆は好きではありませんが)体調は改善しております。

というコトで、やっぱり納豆は効き目がありそうという人体実験の報告もしておきます。  
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2006年12月09日

人が人を管理することはできない

管理教育とか、管理セミナーというものがありますが、人が人を変えるコトは出来ないというのは、心理学の一番の基本です。

しかし、人との合意を管理することは出来るというのが、コーチングつまりリーダーシップコーチの考え方です。

若い人を上手く使いこなせないという皆さん、こちらの本を読んでみてください。
部下をやる気にさせる100の方法
必ず、気付くはずです。変えるべきは自分の考え方なのだというコトを。

簡単に述べれば、

1 より多くのことをしたいなら、ペースを落とす。

2 相手にわからせたいなら、話すのをやめる。

3 早く数字を達成したければ、笑い飛ばす。

4 部下にしっかりとついてきてほしいのなら、先頭に立つ。


「エッ!!」と思うコトばかりでしょう。でも、実際に人間に出来るコトは一つなのです。やるべきコトをコツコツとやり、自分でしゃべらずに相手の話を聞けば、理解不足の箇所が判るので指摘するコトが出来、追い詰めなければ、ノビノビと実力を出させるコトが可能になり、口でやらせようとするよりも、自ら手本になるコトが有益だというコトです。

より詳しく知りたい方は上の本をお読みください。何度も言っていますが、トップが正しく動けば、下の者も自然と正しい動きをするのです。今の日本に必要なのは、正しいコーチングのやり方なのかもしれません。  
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テンション上げて仕事をゲット!!

おはようございます。そうやって、仕事へのパッションを身に付けたら、とにかく自分の仕事を見つけるコトです。

ハイテンションになって、熱意を前面に押し出すコトが大切だと著者は続けます。

●三割増しの熱意

●面倒は率先してこなす

●タダでもいい位の気概

●新たな企画への挑戦

●笑顔


以上が大切だし、どんな仕事をやるべきかということは、自分の内側だけを掘っていては出てこないので、自分に向いているかことは何か、自分がやりたいことは何かなど、適性や才能を問い詰めるよりも、人に頼まれたり期待されたことに、全力で応えるのが健全なスタイルではないかと述べています。

やりたいことかどうかはとりあえずおいておき、頼まれたらやってみる。

そうすれば、「これならできる」と思う分野が判るので、やりたいことが知らず知らず拡大して、あれはできて、それはできないかもという取捨選択が可能になるというのです。

何にも踏み出さないでいることは、自分の人生を台無しにしてしまう恐れもある。エネルギーも溜めすぎると悪い方向に向かい、他者への攻撃性となって、自分を孤立させてしまうことるあるのですから、仕事を義務的な苦役ではなく、エネルギーを燃焼させる活性の場だと考えましょうという著者の言葉は、どう進むべきか迷っている人への、道しるべになると思います。

イイ仕事に巡り会うコトは、人生を色々な意味で豊かにします。金銭的な問題も大事ですが、最終的に、精神的に満足できる仕事に就けるかどうかは、自分の心の持ち方に一番の課題というコトです。  
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2006年12月08日

トラブルに負けない気持ち

不愉快な感情を醸成せずに、ただ激して発散処理してしまうと、パッションとしての強化は望めないと著者は述べている。

腹の底にぐっと溜めて、エネルギーにしないといけない。

仕事にトラブルはつきものだ。自分がミスをした、あるいは誰かのミスやクライアントの横暴が降りかかったときなど、普通は、「俺は無能なのではないか」と自分自身を責めるか、「俺は悪くない、悪いのは○○だ」と何かに責任を転嫁して開き直ってしまいがちだ。どちらにしろ事態の打破にはプラスに働かない。

自分を責めてばかりの回路に入ってしまうと、過剰な自己否定をしてしまう。ミスしたことを責めるだけではなく、自分の人間性までを否定し始めるのは非常に危険だ。自尊心をなくし、客観性を失い、やけっぱちになる恐れがある。むろん、他者を批難する回路も不毛なだけだ。

そういうふうに自分やお互いを責める構図から離れて、ここはひとつ、「受難に陥ったのだな」と考えてみる。すると、この状況は降ってきた受難なのだからと冷静になり、相手を悪く思う気持ちは失せてくる。自分に非があるかもしれない場合も、ひとまずそれはおいておいて、この難をどう払拭するかに集中する。それがポイントだ。

パッションを枝化する上でとてもいい儀礼的方法がある。

とんでもない事態が降ってきたときは「受難」とつぶやきながら頭を下げる

そして、一呼吸おいて、「情熱」とつぶやきながら頭を上げる

「分かりました」とその場を収め、心で「受難」と唱え、情熱に輝いた目をして立ち上がってほしい

そうやって、気分を一新して、何事にも耐えられる人間、そして、悔しさをバネにして、やり抜く人間になって欲しいというコトだろう。

今、ニートだったり、フリーターだったとしても、いや、だからこそ、それは「受難」に過ぎないと割り切って、「情熱」を胸に、立ち上がって欲しいとワタシも願っている。  
Posted by seitaisikoyuri at 21:14Comments(2)TrackBack(0)

ネガティブ刺激をパワーに

おはようございます。それにしても政務調査費と呼ばれる御金の使い方メチャクチャですね。そういうネガティブな刺激こそをパワーに変えるコトも大事だと著者は言います。

ポジテイブなものだけで火がつかない人は、嫉妬心とか、ハングリー精神を利用して、ある屈辱的な不愉快な体験を、その後の自分のエネルギーに転化することを薦めています。

「できるわけがない」と言われて、「やはりできないかも」と思ってしまう人もいるかもしれない。しかし、頭ごなしに無理だと言われると、できないかもしれないことでも、できるように持っていきたくなる。そんなふうに血が騒ぐ人もいるはずだ。

多くの社会人は、日常の中でこうした不愉快さを直視するのを避ける傾向がある。しかし、実は不愉快さというものの中には、とてつもない起爆力がある。

それを私は「不愉快な刺激」と呼んでいる。人生を生きていく上でもっとも重要な食べ物の一つが、この「不愉快な刺激」だ。これを潜在的な力に買えていくということを私は積極的にとらえている。

ということで、文豪と呼ばれた夏目漱石もロンドンに留学している際は、引きこもっていたのにもかかわらず、その「引きこもり」を凝縮していく中で、「自己本位」という言葉に行き着き、帰国して教師をしつつ、小説を書き始めた。

「不愉快な刺激」を受難ととらえ、それを熱源に激しいほどの仕事への情熱に昇華させることができるか、それに対してただネガティブに屈するかというコト。

それを左右するのが、パッション力だと言う。

パッションは普通、激情や熱情と訳される。しかし、原義とキリスト教の考え方を合わると「キリストの受難」と結び付く言葉なので、苦しみや受難体験から生まれた非常に強い情熱、これをパッションと呼び、ネガティブな強い感情をまったく性質の違うものに転化してしまうことが大切だというコトです。

感情のエネルギーなのだから、年齢にかかわらず火をつけられることが利点なので、受難をパッションに変える回路さえ持てれば、ネガティブなコトをきっかけに、やる気を出すことが可能になる。

現実には、その回路を持たないで、不愉快さを愚痴をこぼし合ってごまかし、慰め合っている人も大勢いる。

どちらを選ぶかは、アナタの選択というコトです。  
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2006年12月07日

継続は力なり

さて、誤解でもイイとして、ミッション(使命)を感じたとしても、それを持続出来なければ、霧散してしまいます。著者はこう述べています。

どんな仕事でも、いっぱしのことをなし遂げるためには、絶対にやり抜くんだという強い意志が必要だ。意思を維持することが一番の労苦ともいえる。

どんなにやり甲斐のある想像的な仕事でも、膨大な量の単純作業によって支えられていることがほとんどだ。仮に非常にクリエイティブな発見をしたとしても、それを論文に書いたり、実験で実証したりするには、長期にわたる地味で単調な作業を要する。

ミッションを根底で支えるのに必要不可欠になってくるのは、職人気質である。

単純作業を働く喜びに変えてしまう身体知とセットになった職人気質があってはじめて、働く気持ちを現実的に維持し続けることができる。

職人気質の人は自分の仕事に関して非常に高いプライドを持っている。誰に頼まれたわけでもないのに、お金と関係なく、ある一定の質以上の出来をどうしても自分に課してしまう。職人気質には一生これで生きていくのだという覚悟がある。

その心意気が一流の仕事を生み出していたわけで、この気質は長く日本人の働くメンタリティとなっていた。

その仕事によって向上するかどうかは二の次で、自分の持っている資産である時間を売り渡していく。そんな時給感覚のサイクルができあがってしまうともう泥沼だ。自尊心を腐らせるし、当人が思う以上に周りにとって迷惑である。

職人の脂質でもう一つ見逃せないのは、プロとしての納期感覚を持っていることだ。職人は芸術家ではない。市場のニーズにあったフォーマットで、常にある一定以上のクオリティの製品をコンスタントに生産していくことが求められている。

ちなみに、芸術家といえども、完全主義者でいたら、おそらく生活は成り立たないと思われます。妥協をしつつも、これ以下はダメというギリギリ以上で、相手に満足させられるか否かだと思うので、ワタシの感覚としては、ニートになる人は、イイ意味での「イイかげん」になれないのではないかと思います。まずは、自分を許すコトが大事ではないかと‥‥他人が許さなくても、自分だけは自分を許すコトが第一歩ではないかと、前に戻ってそう思います。  
Posted by seitaisikoyuri at 21:30Comments(0)TrackBack(0)

ミッションを感じるには

おはようございます。ともあれ、「これが私のミッション(使命)だ!」と思うトコから始めないといけません。

その方法として、本物との出会いを薦めています。簡単に言えば、「オーラのある人」というコトでしょうか。

強い人の力に触発されるコトが大切だそうです。

自分にとって何をミッションと感じるか、何をミッションとして受け取るかというテクニックに本質があるそうです。

ともあれ、伝記を読むコトも薦められてます。

世のため人のために働くというコトを他人から強制されるのではナク、自分で気付かないと意味がありません。

誰かに強制されてしまうと、「イヤイヤ」とか「シブシブ」やるコトになりかねません。

心から、この場を楽しくしてあげたい、とにかく人がいたら良くしてあげたい、世のため人のために役立ちたちという熱い気持ちが生まれて来ないとダメなのです。

ちなみに、「天職」というものは、その仕事をやっている限りはちょっとずつでも向上していく喜びがある。それが自分に向いている天職であり、たとえ、やっているときはつらいと感じたとしても、はきりと向上している実感があるとき、人は自分に自身が持てる。

そうした仕事を自分のミッションとして引き受け続けることができるので、才能のかけらに振り回されるより、「これをやっているときの自分が楽しい」という気持ちを軸にして、自分と仕事の関係を見ることが必要だそうです。

日々一歩一歩向上していく確かな手応えと客観的な評価のあるものこそ、一生取り組むに足る天職である。

こういう明快な解答を持てれば、シアワセな職業についているというコトの様です。  
Posted by seitaisikoyuri at 08:35Comments(2)TrackBack(0)