最初に断っておくけれども、「悪法でも法は法」と言って亡くなったと言われているソクラテスを尊敬しているので、憲法に規定されている様に、「天皇は日本の象徴」であると思っている。
タダ、世の中の人々の中で天皇の威光を利用して、崇め奉った上で何かしら自分に役立てようとする人には、嫌悪を覚える。
で、そういう人々が今、話題にしている男系だの女系だのという問題に対して、どうしても議論する前の前提として知っておいて欲しいのが、戦前にとても有名な人物であった神功皇后と夫の仲哀天皇と息子で応神天皇となった三人の関係。
無論、史実だったかどうか議論があるコトは承知しているが、日本初の正史「日本書紀」に書かれているのであり、それによる正当性によって、現在の天皇制が存続している以上、「日本書紀」の記述を我々は知っておくべきと考えるが、知らない人が多いと思うので、ネットにこの情報を書くコトは意義があると思うので、今日は休みだから、じっくりと要点を整理して書き込んでみたい。
仲哀天皇は、景行天皇の孫で、日本武尊の息子だが、叔父の成務天皇に男児がなかったので後継になった。
熊襲征伐に妻の神功皇后を同行して行き、神の言葉を信じなかった故に、仲哀天皇九年二月五日に病気で亡くなった。
神功皇后は既に孕っていたが、熊襲を征伐し、新羅に九月に出兵した。
そして、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約束したので帰国して、十二月十四日に後の応神天皇となる息子を産んだ。
その翌年、二月に仲哀天皇の香坂皇子、忍熊皇子が、腹違いの弟に将来従わされるのは嫌だからと反乱を起こしたが、敗れたと書かれている。
ちなみに、神功皇后は九月十日には臨月になっていたが、石を腰にはさみ、出産を遅らせたコトになっているのだが、あまりに現実的ではナイ。
つまり、応神天皇は本当に仲哀天皇の息子なのかという疑問もあるけれども、一応、神功皇后は開化天皇の血をかなり下ってはいるが受け継いではいるので、実質的な天皇として君臨したし、仲哀天皇の実際の父親が誰であれ応神天皇は天皇家の血を引いているというコトになる。
かいつまんで言うと、応神天皇は女系天皇の流れで天皇になった可能性が高いというコトを言いたいのだけれど。
その他にも、継体天皇の正当性は自分の血筋よりも、次に即位した天皇は先代の天皇の娘であったというコトで補強されている部分があると思うので、あまり男系女系を煎じ詰めると、万世一系にすら疑問符が付きかねない。
古代史では、王権の断絶があったとする意見もあり、おそらくそう考える方が理論的に正しいと思っているが、少なくとも日本が、外国の様に血で血を洗う如き戦争にならなかったのは、倒した王の娘を妻にして、自分も王となり、その子供を王とするという流れが、昔から多かったからであり、前政権を根絶やしにするタメに絶滅させるというよりも平和的な解決法というコトで、それはソレで良いのではないかと思っている。
少なくとも、何世代も前に分家となった家の子供の方が、正当性があるという様な考え方よりも、なるべくならば本家の子供が継承するという考え方の方が、継承に伴うイザコザも無ければ、利権争いも少なくて良いと思う。
特に象徴たる地位は、平和的に権限委譲が行われるのが最良であると思うので、書かなくてもこれからの天皇家がどうすべきかは、誰でも似た様な結論が出るのが本来だと思うのだが。
古代の天皇についてより詳しく知りたい方は、現在、入手出来るかどうかは判らないが、下の本を参考にして書いたので、そちらをどうぞ。
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
Posted by seitaisikoyuri at
16:18
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