風邪気味だったのが、悪化したみたいです。
午前5時55分に停電したので、8時過ぎに国道十八号の信号はどうなっているのかと思いつつ、写真撮影に行きました。
午前中に仕事が、出来るかどうか知りたくて。
加えて、写真に撮ろう撮ろうと思っていたまま、せっかく作った看板の写真が撮れてナイので。
「中千田」という信号の近くに、こんな看板を立てました。
この先は「母袋(もたい)」という信号に続く高架橋です。
後で知ったのですが、この道の西側は停電しなかったそうで、だから、普通に信号は作動してましたが、何時もと違って道はガラガラでした。
信号が止まった地域では、かなりの渋滞だったタメだと思います。
結局、九時半前に停電が終わったので、午前の仕事を繰り下げて頂いて開院しました。
長野日赤は普通に診療出来たそうですが、長野市民病院とか須坂病院は大変だったみたいで。
遠くから、お見えの御客様がいらっしゃればこそ、得られる情報です。
それにしても、三月でまだ助かりましたが、一月や二月なら寒くて凍えてました 。
それと、改築に当たってオール電化も考えましたが、原子力の問題もあり、加えてリスクの分散というコトで、プロパンガスのままでしたが、停電してしまうと電気だけでナク、電話なども使えず。
水道から水が出て、コンロでお湯を沸かせる有難さをしみじみと感じました。
トイレに行っても、流せるのが当たり前になってましたが、『もし、水まで止まってしまっていたら』と。
携帯電話は、充電してあったので通じましたが。
3・11を目前にして、改めて東北の方々は大変な思いをされたのだと、身をもって体験しました。
人間、全く同じではナクても、類似の体験をするというコトは、想像力を膨らませられますね。
未だに、不自由な暮らしを強いられている原発周辺の人々の御苦労は如何ばかりかと。
新たな原発再開は、その周囲の人々にリスクを強いる可能性が高く、目先のお金に負けてはイケナイと、こちらも改めて思いました。
停電の後は、コンビニのパンやおにぎりは、売り切れていたと聞きましたし、備蓄の大切さも感じました。
朝6時にセットしてあった、炊飯器はなんとか普通に炊けましたが、御粥にして温めて食べようかと思っても、何かを入れるタメに冷蔵庫や冷凍庫を開けるのが躊躇われて、結局、停電が何時終わるか判らないので、買い置きのカップうどんを食べて温まりました。
そんなに多くナクても、多少は食料などもストックしておきたいものですね。
Posted by seitaisikoyuri at
21:19
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