仕事の都合でこんな時間になりました。コメントを頂いている場合は、時間が許せばそれにコメント返しを先に心掛けておりますので(何時もコメントを頂いている方は優先的に、それ以外の方はどういう方なのか、じっくり判断してからなので、かなりブログに反映されるのが遅くなっていますので御了承ください)、何時もの定時更新からズレテます。
さて、オウムの教祖といい、奈良の女児殺害犯といい、自分のしでかしたコトを理解できない人が増えているようです。
これを多重人格とかだと考えるコトも可能なのですが(以前のブログの中の、『「私」が、私でない人たち』の中で出て来た、〈ISH〉の中には、自分が「神」であると名乗ったりするらしいので、そう理解したら、今回自らの犯罪を理解しようとしない「別人格」を創り出したのだと考えれば、凡人でも理解しやすいと思いますから)、そういうコトを考え続けてしまうと、犯罪者はホトンド無罪になってしまうと思います。
何故ならば、冷静に考えて殺人をしようと思うような人は、そんなに存在するとは思えないからなのです。
昨日読んでいた本(話が混乱するので、その紹介はアトにします)でも、人間はカッとなった瞬間のコトは、理性を感情がハイジャックしてしまうので、覚えていないというコトがあると書かれていました。(難しくいうと、情動をつかさどる「扁桃核」が大脳新皮質よりも速く、攻撃・逃避反応するからです。この話は、アトで詳しく)
それを加味すると、カッとしてやってしまったコトを、殺人者がヨク理解してなくても仕方ナイらしいのです。
でも、だからといって、全てを許していたとしたら、何の落ち度もナイ一般の犠牲になる人達はたまったモノではありません。
被害者が『病気だったのだから仕方ナイ』と思えるくらいのコトならともかく、殺人となるとコレは死刑の是非とも絡むし、現在の司法制度とも絡むので、簡単には論じられない出来事です。
ともあれ、我々は「悪法も法なり」と言って無実の罪でも死んでいったソクラテスの考える法治国家に生きているワケです。
法律に則って行動すべきであり、今回のオウム裁判の弁護士の行動は、それを知っていると認定されている弁護士の行動とは思えません。
裁判も、勝ち負けにコダわるあまりに、姑息な手段を使う人々がケッコウいますが、正々堂々と自らの信ずるトコロに従って、良心に恥じるコトなく進められるコトを誰もが願っていると思います。