おはようございます。『史記』の話です。
中国の『正史』と呼ばれるモノの中で、最も早く書かれ、最も古い時代のコトが書いてあります。司馬遷は、王から庶民、無類の徒に至るまで、あらゆる人間を登場させ、成功と失敗の膨大なエピソードを混じえながら、様々な人間模様を描いています。
范蠡(はんれい)という名前は、御高齢の方々なら知っているのだとは思いますが、建武の中興の時の後醍醐天皇が足利氏によって隠岐に流配された時、桜の木に「天、勾践(こうせん)を空しうするなかれ、時に范蠡なきにしもあらず」(御心配しなくても、范蠡のような忠臣がおります)と書かれていたという忠臣のモデルなのです。
ちなみに、ワタシは後醍醐天皇は才能はあったモノの人心の掌握術には欠けていた人物だったと思います。(日本史となると俄然、力が入った批評になってしまいますが‥‥)
ともあれ、范蠡なる人物が『史記』に登場するとは知りませんでしたし、その人となりも全く知りませんでしたが、ナカナカの人物です。
越王の勾践が呉の国に負け、会稽山にて屈辱的な講和を結び、「会稽の恥」をすすごうと苦節二十年、呉を滅ぼして恨みを晴らした立役者が范蠡である。
しかし、范蠡が並みの人でナイのは、大将軍の任命を『得意の絶頂の勾践に仕えるのは危険だ。苦労は共に出来ても、楽しみを分かち合うタイプではナイ』からと、何も言わずに辞意を表明して、翻意させたがった気持ちも振り切って、全ての地位を投げ打ち、斉(せい)の国に移住してしまう。
斉の国で、息子達と事業を経営し、巨万の富を築いた彼は、斉でも宰相就任を要請される。しかし、そこでも『栄誉が長く続くのは禍のモト』とばかり、申し出を断り、財産を村人に分け与えて、陶(とう)に移り住む。
陶でも、事業で巨万の富を築き、波乱万丈な人生を生きるのだが、≪保身≫というと、悪い意味に捉えられてしまうコトが多いけれども、≪明哲保身≫という言葉があるように、深い洞察力を持って身を守るコトは決して悪いコトではナイ。名は残るとも、楠正成の様に討ち死にしてしまっては、それで終わりだ。生き延びて、何かを為すコトこそが、やっぱり大事なのだと、この歳になって思う。