おはようございます。では、詳しく。
我々が、他人の心に寄り添うコト(共感)が出来るのは、決して知性とは比例するワケではありません。この本の著者は、アメリカの人なので、米国にあった事例を説明に使っていますが、日本でも似た様なコトがあるので、理解できるでしょう。
有名大学生が、友人と共にカジノのパーティーに参加し、途中にトイレに行った時に、連れの友人が七歳の女児に性的なコトをしているのを見たが、そのまま何もなかったかのように立ち去り、家に帰った。しかし、その友人は直後に七歳の少女を殺害し、殺人罪で起訴されたのだが、見過ごした大学生は、「自分は何も悪いコトはしていない。友人をトラブルに巻き込みたくなかっただけだ」と言い訳した。
たった七歳の女の子が、性的虐待されているというのに、見て見ぬふりをして何の責任も感じない。何もしなかった故に、友人は殺人まで犯してしまったというコトに、良心の呵責を感じないなどというコトは、通常では考えられないコトではあるが、こうした無感情というか、他人への思いやりが欠如した人々が、増殖しているというコトは日本の犯罪を見ても実感する人が多いと思う。
行き過ぎた学力重視の結果だとすら言えるだろう。他人を蹴落としたり、勝つコトだけが人生の目標となるならば、他人への感情の移入など、時間の無駄であり、余計なコトに過ぎない。
この大学生は、ラジオの視聴者番組で、「たとえ被害者が七歳の子どもで助けを叫んでいたとしても、自分にはこの残酷な事件に介入して止めさせる義務はなく、世界中のどんな悲劇も自分の心を捉えることはなく、どれもたいした問題とは思わない」とすら話した。
高いレベルの教育を受けたのに、冷淡で傍観者的な不介入の論理を身に付けるなんて‥‥
他人の苦しみを平気で無視するような考えを改め、自分自身が援助が必要な時に他人から同じように無視されないようにしなければ、世の中はどうなってしまうのか?
思いやりの心の大切さを語ったジョン・ダンフォース(米国の上院議員)の言葉で締めよう。
人間性を奪われた人間を目にしたときには、いかなる大義によってその残酷な行為が正当化されようとも、常にそれに介入する義務がある。いつ、どこでそのような行為を目にしたとしても、歩み寄って話しかけ、それを止めさせることが私たちに与えられた義務なのである。