おはようございます。お釈迦さまが、この世は「生・病・老・死」という苦しみがあるとおっしゃったのは、かなり昔のコトになりますが、確かにそうでしょう。それでも、皆、「子は親となり、子は親となる」から、現在まで人間社会は続いて来たのです。
どんなにオカシナ人々が存在しようとも、自分は染まらずに生きようとするコトは可能で、極端な話、相手が誰であろうと、もっと極端だと女性だったら、相手が完璧に不明でも人工授精すれば子供は産めて、ともあれ、その子供は自分の子供に変わりはありません。
しかし、世の中が平和になり過ぎて、生きているだけでも十分大変だった時代とは違い(平均寿命が長くなったタメ。ちなみに縄文時代の平均寿命は三十歳ぐらい)、楽に生きれるようになったから、逆に生きるコトの価値が相対的に低下している。
その上、皆、楽に楽に生きようとして、今日の新聞でも大変な「産婦人科」や「小児科」の医師の不足は深刻だという。確かに、ある程度以上のお金が得られるのであれば、苦労せずに楽しく人生を送りたいだろう。ホトンドの人がそう考えても無理はナイ。でも、それでイイのだろうか?
30代未婚男
この本を、「未妊―「産む」と決められない」の前に読んだのだが、共通して言えるコトは、自分というモノが一番最初にあり過ぎて、他人への「ギブ」の感覚が弱いコト。
世の中は「ギブアンドテイク」というが、「ギブギブ」と与えてさえいれば求めたものが与えられるワケではナイし、「テイクテイク」と欲しがってばかりでも、やっぱり貰えるとは限らない。意思を持って、まず与え、そして権利として貰うものは貰うつもりが必要だと思う。
現実が自分に合わせてくれるワケではない。自分を現実に合わせるしかナイ。大変なトコにこそ、「やりがい」が潜んでいるので、楽をして果実だけを手にするコトは難しい。
今は、そんな当たり前のコトを教える人もドンドン減っているのだろうか? 高校が予備校化する時代なんだから仕方ナイのかもしれないが、そんなんだったら、いっそ全部予備校にしてしまって、大学に検定試験で資格を取らせて受けさせればイイのに。もっと、しっかり身が入った教え方をするだろうから‥‥社会における自分の仕事の意味や、責任、使命というものを忘れた人々がとても多い様に思えてならない。立派な人も居るには居るのだが‥‥