おはようございます。自然に低体温療法みたいになって、生還された方のニュースを聞いていると、人間の蘇生力は計り知れないものだと思います。
そういった意味で、ホームレスを死亡させた中学生達の更正も、奇跡的なコトがなければ無理だとは思いますが、適切に行って欲しいと思います。
ヤンキー先生の教育改革―すべては子どもたちのために
義家さんの本は何冊も読みましたが、いじめに対する会議の話でも、「クラスをダメにする原因のワル」は別にして排除というような話をしているのを聞くと、今の自分の地位にいられるタメに他の人々がしてくれたコトに対して、どう思っているのだろうと気になります。
他人のあらさがしをしたいワケではありませんが、「十七歳まで暮らした長野は、私が犯してきた罪と悲しみがたくさん埋まっている場所、この地を踏むだけでも、私にはかなりの勇気が必要だった。まして、そこで『子どもの教育』を語るとなれば並大抵の覚悟ではすまされない。素直に「ごめんなさい」と謝ったり、「ありがとう」と感謝することができけばいいのだろうが、なかなかそういう気持ちにはなれなかった。だから、長野を避け続けてきた。」とあって、でも、講演しに行くのですが、「(十六年を別の場所で送っていたから)それで、「禊(みそぎ)」が済んだ、というわけでは決してないが、そろそろ故郷の呪縛から解き放たれてもいいだろう。どんなに悲しい歴史が眠っていようとも、そこを避け続けているうちは新しい一歩を踏み出せない‥‥」というくだりに、『自分の犯した罪で、人生を変にさせられた人の存在があるかもしれないという認識が、薄くないか?』と思ってしまいます。
少し前に悪いコトをする人間は、自分の罪の重さを深く考えていないから、罪を繰り返すコトが出来るという話をしました。確かに、今は昔のようにヤンキーではないかもしれませんが、考え方が表面的になり過ぎてないでしょうか?
義理の母親を実の母親だと思っていたのに、違うと判ってから荒れた日々のコトを書いた本も読んだコトがありますが、その時も、『確かに可哀想だけど、当たられた人はもっと可哀想だっただろうという後悔の念は?』と思ったので、前の「犯罪を繰り返す心理」についての話を読んだ時には、加賀乙彦さんの「宣告」と義家さんの荒れていた時代を書いたモノを思い出しました。
せっかく、教育に発言出来る立場になったのですから、自分の過去が痛みを伴うとしても、一つ一つをちゃんと振り返って、本当にツライ「加害者になる人を救う教育」を考えて欲しいです。加害者が救われれば、被害者は発生しないのですから!!