昨日とは違う意味であまりに馬鹿げていると思ったのが、沖縄の集団自決に対する首相の発言。ある意味、茶番の裁判判決みたいだ。
「検定委員は学術的な意見を述べた」なんて、生き証人の話す「真実の証言」の前で、学者の意見など何の意味もナイはず。
これが、何百年前の歴史ならば(こういう論拠で日本の歴史は昔から歪められていて、ちっとも日本の真実の歴史に日が当たらないのは充分承知しているが)、何時ものコトだと我慢も出来、何時か必ず真実の歴史の証拠が欲しいと我慢もするが、証拠が在っても見向きもしないのだから、最早、何をかいわんやである。
前にも書いたが、従軍看護婦を外地に捨て去った日本軍なのだから、当然、民間人の命など全く虫けら同然だと思っていたに違いない。作戦に邪魔だと思えば排除しただろうし、民間人を人間の盾にしたトコロで、アメリカ軍も抹殺したであろう。だからといって、日本軍がやったコトを正当化するコトは出来ない。
アメリカが日本を占領した時に、日本各地にRAAという「従軍慰安婦」と同種の「特殊慰安施設協会」を作ったからと言って、日本の「従軍慰安婦」問題がチャラにならない様に。
猜疑心と不安によって、人々の連帯感を壊し、貧富の差を拡大するコトによって、志願兵を増やす様な、アメリカの政策の追従ばかりしている日本にも、類似した傾向がドンドン出て来ている。
政治家にとって、利権を確保するには戦争が一番確実だ。「戦争は多くの人々が富を失い、その富を一部の者が手中にする」、そうした戦争批判が内に籠められているからこそ、「風と共に去りぬ」は人種差別的な部分もあると言われながら、名作として世の中に存在しているのである。
戦争の勝利者はプロパガンダによっても決まる。アメリカが今の首相の祖父を「戦犯」から外したのも、何も見返りを求めない行為では無かったハズだ。
我々は歴史の真実に目を開かなくてはイケナイ。そうでなければ、再び戦争の災いが襲うかもしれず、戦前の様な格差社会が到来するかもしれない。
格差は何故減らすべきなのか。答えは簡単。資本主義は拡大が必要で、それには拡大する能力のある人間の数がより多い方がベターであり、人間は他者と違うコトで優越感もコンプレックスも抱きやすいからである。そう志向したトコロで、多少の格差は出来るに違いない。しかし、政策の段階から、格差を歓迎するのは間違いだと思う。
ワタシ達が健康的な毎日を手にするタメには、今の日本の行き先を変更するのが、一番の健康法なのかもしれない。