反社会的パーソナリティ障害が形成される家庭では、親たちは養育を放棄し、ほとんど子どもの指導を行わない。「親が目の前で自分の行動を注視している」という心理的環境になく、放りだされて、自分で何とかやっていかなくてはならない子どもは、同時に「自分は誰の制約も受けずに独立している」という感覚でいるから、気楽でもあり、やりたいようにやることができる。という感じなのかもしれない。そして、昨日紹介した本でも語られていた、ネオトニーという言葉(幼形成熟とか幼態成熟と訳され、どうぶつの成長が一定の段階で止まり、そのままおとなになって生殖をいとなむ状態をいう)なのですが、それが必ずしも未来をバラ色にするワケではナク、人類の終幕を暗示するような、不気味な灰色の世界を想像させると述べている本があります。
親の制約を受けないということは、試行錯誤する上で、子どもが参照できるモデルも存在しないということである。
子どもは優しさを体験することができず、「拒絶されている」「放っておかれている」という感覚をますます強め、「欲しいものは自力で手に入れるしかない」という信念を形成する。結果的に「愛され、与えられる」という可能性を放棄し、ものを得るためには、「奪い取り、所有する」ことのみが唯一の手段だと学習してしまうのである。
他人に気に入ってもらっても何も手に入らないのだから、「他人の欲求や感情に感心も持つべきでない」とも考えるようになる。彼らは、クールな無関心さを示すようになり、自分勝手に邁進し、タフで、周囲に対して略奪的なアプローチを行う傾向を現わすのである。
日本人の顔―小顔・美人顔は進化なのか
そう考えると、昨日の本の中で、ネオテニー化が進んだモンゴロイドは人類で一番「進化」しているとも即断出来ないなどと思うのです。
ゆえに、人生を良くする努力は、各々が自分に対して、マタ、周囲の人々に対してするべきであり、その結果として現れるのだろうと思うので、何があろうとたゆまぬ努力が大切なんだろうという、かなり当たり前の結論に辿り着くのであります。