2015年10月02日

青い鳥は‥‥

飛んで行ってしまったのだろうかと、考えてみるけれども、そうとも限らない。


この本では、少々悲観的に書かれているけれども、そもそも「幸福」というのは、個人の問題。

結局、「足るを知るか否か」というトコに帰結する問題。

バブルの時の様に、金銭的に潤えば幸せというコトにはならない。

世の中には、「大概のモノは、お金で買える」という人も存在するけれども、「お金で買えるモノは、それだけの価値しかナイ」。

流石に、明日の食事や寝床に困っているというトコまで、困ってしまえば大変だけれども。

ともあれ、恥と思って見栄をハレばともかく、本当に困っていると周囲に助けを求めれば、今の日本なら、おそらく誰かが手を差し伸べてくれるだろうし。

だが、幸福感というモノは衣食住が足りていればこそ、問題にされるモノ。

本当に困窮して、食べるモノが無い状況に追い込まれれば、食べられただけで『幸せ』と思うだろう。

別に困ってナイからこそ、自分を振り返る余裕が出来るので、『自分は幸福かどうか』というコトが問題になるのだ。

本人が、『幸福』のハードルを上げると『不幸』かもしれないと思ってしまうが、明日の心配をしないで済むコトで『幸福』とさえ思えれば、充分、生きていける。

それでも、時々、色々な「幸福論」というのを読むのは面白い。

流石に、若い頃にアランの『幸福論』を読んだ時の様に、感動するには人生を生き過ぎてしまったのかもしれないが‥‥
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この記事へのコメント
こんばんは

幸福論、ずいぶん昔に読んでますがすっかり忘れています

少々健康的な問題を抱えていますが現在は幸福なんだと感じてます

凸凸
Posted by k-hirata at 2015年10月03日 19:02
お金が多くあっても不幸に感じてる人もいて、お金が少なくとも幸福に感じてる人もいますよね。『幸福論』は読んでませんが、五木寛之さんの書いた本は反宗教的なイメージがあった気がします。でも親父は五木寛之さんの本が好きで多く書棚にありましたがね。
Posted by 智太郎 at 2015年10月03日 19:10
k-hirataさん、必ずしも完全な健康だから、幸せとも限りません。

「徒然草」にも、あまりに頑丈な人は友達に不向きと書かれているのは、病気の人の気持ちが判らないからでしょう。

足りないものが在るからこそ、持って居るコトの有り難さも理解出来るのかもしれません。
Posted by koyuri at 2015年10月03日 20:28
智太郎さん、幼少期から、お金が多くあっても不幸に感じてる人を見たりしていたので、お金に多大な期待は抱けません。

五木さんは、若い頃は無頼派的な小説を書いてましたが、熟年になって真宗に感心を持たれてから、ガラッと書くものが変わりました。

どちらも愛読してますから、人というのは変化するものだというコトを実感します。
Posted by koyuri at 2015年10月03日 20:31
 
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