飛んで行ってしまったのだろうかと、考えてみるけれども、そうとも限らない。
この本では、少々悲観的に書かれているけれども、そもそも「幸福」というのは、個人の問題。
結局、「足るを知るか否か」というトコに帰結する問題。
バブルの時の様に、金銭的に潤えば幸せというコトにはならない。
世の中には、「大概のモノは、お金で買える」という人も存在するけれども、「お金で買えるモノは、それだけの価値しかナイ」。
流石に、明日の食事や寝床に困っているというトコまで、困ってしまえば大変だけれども。
ともあれ、恥と思って見栄をハレばともかく、本当に困っていると周囲に助けを求めれば、今の日本なら、おそらく誰かが手を差し伸べてくれるだろうし。
だが、幸福感というモノは衣食住が足りていればこそ、問題にされるモノ。
本当に困窮して、食べるモノが無い状況に追い込まれれば、食べられただけで『幸せ』と思うだろう。
別に困ってナイからこそ、自分を振り返る余裕が出来るので、『自分は幸福かどうか』というコトが問題になるのだ。
本人が、『幸福』のハードルを上げると『不幸』かもしれないと思ってしまうが、明日の心配をしないで済むコトで『幸福』とさえ思えれば、充分、生きていける。
それでも、時々、色々な「幸福論」というのを読むのは面白い。
流石に、若い頃にアランの『幸福論』を読んだ時の様に、感動するには人生を生き過ぎてしまったのかもしれないが‥‥