2017年02月17日

宗教を考える

正直な話、昔から信じられるとすれば八百万の神か、さもなくば無宗教かという、あまり特定の宗教には無頓着な人間である。

とはいえ、若い頃は「どんな宗教でも信じられるのならば、人生はどう変わるのだろう」と思って、かなり色々な宗教の本を読んだコトがある。

そして、出した結論は「どの宗教も、最終的なものは同じで、そこにたどり着くまでの道が違うだけで、究極は同じ」というコトだったのですが、正に同じ言葉が下の本に書かれていてビックリ。


ちなみに、そう言われた方は、「信仰に二股はいけない」と他の人から言われて、カトリックへの道を邁進されたのですが‥‥

ともあれ、私はならば完全なる無宗教の道を行くべきか、それとも子供の頃から馴染んで来た「一木一草」にも神は宿るという八百万の神を信じるか、どちらかしかナイだろうと思いつつ、どちらでも構わないというアバウトな選択をして、現在に至っているワケです。

カトリックの道を歩まれてらっしゃる方が、「信仰とは、遙か遠くに輝き、闇の中で寒さに凍える私たちを、支え導く光である」と言われると、確かにそういう部分もあるのかもしれないとは思います。

ただ、だからといって、これからも余程の事が起こらない限り、何かの宗教に入信するコトはあり得ないと思います。

心の安寧を得てしまえば、生きているという実感が薄れてしまうかもしれませんし、あるがままに生きて行くしかナイと、腹をくくってますから‥‥

信教の自由は保障されていますし、周囲の人々が入信しても別に構わないのですが、昔からどんな勧誘を受けても、心が靡きません。

読んで見て下さいと頂くパンフレットは、一応全て読ませて頂きますが、若い頃と同じ感想しか待てないので、どの宗教にも一定の距離を取らざるを得ないので。

あまりに、「のれんに腕押し」なので、各種勧誘の方々も諦めたのか、そう繰り返しはお見えになりませんし。

それでも、宗教の本は何冊でも読むつもりはあるので、これからも読んで行くだろうとは思いますが。

卒業した浄土真宗系の大学も、そうとは良く知らずに入っただけで、宗教学は必須でしたが、ホトンド出席もせず、それでも留年させると面倒と思われたのか、「可」で、出させて頂きましたし‥‥
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この記事へのコメント
私の宗教観は菩提寺がたまたま「真言宗」ご本尊は弘法大師で
先祖はここの墓にはいっています。
今日、私が生きているのは両親がありそして祖父母とその先の先祖がいたおかげさまとの解釈です。

毎朝、仏壇にてを合わせ一日の無事を祈っています。


私の地域は新興宗教の勧誘に来る人が多いのです。すべて丁重にお断りしています。

近くに最近勢力を伸ばした某教団があります。あるとき見学にいったのですが受付はまるで空港カウンターのようでシステム管理されていました。この教団には政府高官の母堂さまが入信しています。
Posted by takachan at 2017年02月18日 15:55
takachanさん、大学に入ったら寮だったので、お物参という朝の行事があって、嫌々やってました。

ちなみに、生家は禅宗だったのですが、婚家は浄土真宗、もう縁だと思ってその墓に入る覚悟は出来てますが、未だに無宗教か、八百万の神か、どっちかしかナイと思ってます。

人生は、結局、我が道を行くしかナイのですから‥‥
Posted by koyuri at 2017年02月18日 20:14
こんにちは

私も特定の信仰は持っていません
勿論、寺に墓参りに行って、神社に参るのですが固定の信仰は持たずにいます
周りを見渡すと何がしらの信仰を持つ方が多いのですが一定の距離を置いています
信仰はそれぞれの民族の歴史という見方で書籍や資料を見るのは好きです
愉しみでもあります
おそらく生涯このままであるだろうと考えています

凸凸!
Posted by k-hirata at 2017年02月20日 13:32
k-hirataさん、特定の宗教に縛られると、生きるのが大変になりそうです。

どんなモノでも受け入れるか、等間隔に距離を置くのが、一番力を抜いて生きられそうですね。
Posted by koyuri at 2017年02月20日 20:07
 
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