2005年11月07日

受け入れるということ

おはようございます。

かなり元気になりました。
パリの中心部でも暴動が拡大しているようです。
どうも過去に植民地だった地域から移民として受け入れた人達の子孫が、社会的差別による貧困や同化主義に反発しているのが原因と言われています。

同化主義、日本も過去に朝鮮半島で行いました。我が身に置き換えて考えてみれば判ります。自分の姓名を意思に反して「変更しろ」と言われたら、それはイヤであたりまえだと思います。姓名は呼称であり、記号ではありますが、自分が慣れ親しんだモノを他人に強制的に変えさせられるのでは拒絶したくなります。

日本でも、「寛容度ゼロ」(ゼロトランス)指導を文部科学省が導入を検討しているらしいのですが、人間を「不良品」として排除しようとする動きは、モノスゴク危険だと思います。
純粋にしようとすればするほど、不純にアコガレルのは人間の当たり前の心の動きです。前に書きました、人間は大きく分けると「わがままな子供」「大人びた子供」「成人」「優しい母親」「厳格な父親」の五つのパートでなりたっている混沌とした生き物なのです。どれか一つの性格を強制されれば、逆にヒズンデしまうものなのです。

若者を「くず」と呼ぶような寛容度ゼロでは、暴動の収拾は難しいでしょう。
英国のように寛容な移民政策もこの前の地下鉄テロで問題になってはいます。

でも、人に対する姿勢は「自由放任」でもなく、「自分の真似の強制」でもなく、相手の行動を見つめ、違うと思うコトは指摘し、そのコトについて互いに話し合い納得し、互いの違いを認めつつ、互いを尊重しながら交流する以外方法はナイのではないでしょうか?

他人と自分の価値観の違いを受け入れて、でもデキレバそのコトによって互いに高めあって行くことこそが、真の平和とか安定にツナガル道ではないかと思います。
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