2006年05月31日

ナショナリズムとは何か

おはようございます。高原のゴール、メチャメチャ良かったですね。エコノミー症候群で、前回のワールドカップに出れなかった悔しさを全部ブツけて欲しいです。(四年前に応援出来ずに残念だった気分をコチラも存分にブツけて応援しますから!! 優男系が主流の今の日本のサッカー界にあって、ワイルドな貴重な選手です。でも、何だか前よりグッと美形になっていて、それはそれはでウレシイような‥‥)

そういうスポーツに於ける健全なナショナリズムはとってもイイと思うのですが、昨日の著者は「今日の戦争は、人種的プライドと同程度に国家的プライドにかかわるものである。われわれがナショナリズムと呼んでいるものは、自分の属する文化の達成した偉業にたいする健全な満足感というより、悪性の国家ナルシシズムとなっていることが多い」と述べている。

自分で気づいているかどうかは別として、学校の教室に飾られている世界地図は自国が世界の中心に書かれている(日本もアメリカもロシアも‥‥)し、他者を殺すコトはホボ全ての宗教で禁止している(自爆テロが盛んなイスラム教の教祖、モーゼの十戒の第七の言葉は「なんじ殺すなかれ」ですし)

今日では、戦争の両当事者が、自分たちは犠牲者だと主張するのが習わしとなっている。かつて、人間があまり節度を持っていなかった時代には、公然たる征服欲を動機として、ある種族が他の種族をためらいもなく殺していた。しかし、今日では、戦争の当事者はつねに潔白を装うようになっている。‥‥ヒットラーですら、侵略のためにまやかしの口実をでっちあげている。‥‥戦争の当事者それぞれが、相手が攻撃をしかけてきたのであり、自分たちは犠牲者なのだと考えている。こうした双方の言い分にとらわれると、‥‥戦争というのはほんとうはだれが悪いのでもない。どちらの側も攻撃をしかけたのではない。だれも誤った選択を行ったのではない、なぜかは知らないが、自然発火のようにして起こっただけなのだと考えたくなる。

しかし、戦争は自然に起こったものではないと著者は力説する。

太平洋戦争における日本軍の行動だってそうだ。≪張作霖爆破事件≫を口実に他国を支配しようとして、≪南京大虐殺≫をし(当時、そんなに南京の人口は多くなかったから、それはデッチアゲだとする説もあるが、〈〉虐殺はナカッタにしても虐殺はあったに違いない)、でも戦争責任はアヤフヤになっていて、広島・長崎・沖縄の方々、大空襲の犠牲になった多くの地域の人々、そして上官の命令に従って亡くなった多くの人々の命の上に、現在の平和が成り立っているのである。極東軍事裁判が人種により不当な判決が出たとしても、自然発火ではない戦争の責任を誰も取らないで済むホド甘くはナイ。勝てば官軍は、昔からの世の習いではないか。

だからこそ、我々は平時には一人の人を殺しても犯罪になるのに、多くの人を殺せば殺すホド勲章が貰え、昇給する様な戦争をしない様に勤めるべきだと思う。

別に、何かの集団に属していて、こんなコトを書いているワケではナイ。著者の言うように、集団に属すると、リーダーになりたがる人がいて、それに隷属したがる人がいる。そうした行為は、自分を無くしやすいから、イヤなのだ。

我々は、個人個人が、自らの頭で考えて、他人の意見は聞いても、それを無批判に受け入れるのではナク、反芻して自分の中で消化し、自分の意見をしっかり持って、悪いコトは悪いとハッキリ表明しなければ、迫り来るファッショへの道を、再び歩き出しかねないのである。
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