2006年06月06日

無言のうちに苦悩する人に救いを

おはようございます。かつて、小佐野さんという有名な「乗っ取り屋」と呼ばれた人物が日本に存在しました。今の村上さんと、比較して、冷静に分析すると、過去と現在の日本がどうなのか、しっかり見えてくると思います。ともあれ、続きです。

被害者とか遺族というものは、社会的に充分な援助の手が差し伸べられるとは限らない。それどころか、社会は重大な喪失を経験した人々に差別や恥辱感を与えるコトすらある。

何故なのか? 著者は次の様に述べる。

一つには、見る人は明らかに被害者を汚れたもの、自分たちとは異質なものとして見ており、このような異質な存在とは距離を置きたいと考えるからである。第二に、被害者の災難を見ると、自分の幸せが脅かされたような気持ちになってしまう。他者に災難が降りかかるのなら自分も同じ目に遭うかもしれない、という訳である。第三に、見る人は被害者の問題を理解しようともしたいとも思わないのかもしれない。この場合には、被害者を隔離したりどこか遠いところに行ってもらったりして、被害者の遭遇した問題を思い出さなくても済むようにしてもらいたいだけなのである。第四に、被害者の存在は、世界はこうあるはずだという私たちの仮定を侵害することになるのかもしれない。

これら一連の理由を見て、それは言い過ぎではないかと思うかもしれない。苦しんでいる人たちに同情したり、共感を持ったりすることもあるのではないか。と、もちろん、そういう人もいるし、誰でも時によってはそうすることがある。しかし、スティグマ(恥辱)化されたとか、悲しむことを公認されないように感じたと報告する被害者が多いことからすると、スティグマ化の現象はかなり広範囲に渡ると考えてよいだろう。私たちは最低でも、他人の立場に立ってその苦しみを想像するくらいのことは毎日行わなくてはならないのだ。‥‥と。

公認されにくい悲嘆には、どのようなものがあるのか、それは夜にでもじっくり書き込むことにして、これだけはしっかり覚えておきたい。

全ての悲しみに沈んでいる人々と同じような喪失に遭遇する可能性があるという点で絆を共有しているのだ、という認識を深めなくてはならないのである。このような共感を十分にやしなっていくには、周りに気を配り、他者のことをよく考え、人の気持ちを理解できる人間にならなければならないだろう。あまりに多くの人が苦しんでいる。そして、その中の多くが静かに苦しんでいるのである。
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