何故なのか、色々な考え方があるかと思いますが、次の意見も参考になるかと思います。

この1に書かれているのが「あからさまな虐待と見えない虐待」
ある母親が子どもからラーメンを浴びせられたといって、某カウンセラーを訪ねて来たそうだ。深夜まで机にへばりついて勉強している高校生の息子にラーメンを運び、振り向きもしない息子の背中に「がんばってね」と声をかけたら、いきなりドンブリごとのラーメンが飛んできた。同時に「これ以上、どうがんばれっていうんだ!」という罵声も飛んできた。それから母親への暴力が始まって手がつけられないということで、「おかしくなった」息子を治療してほしいというのが親の言い分なのだが、この母親は、自分が息子にやってきた長年の暴力・虐待に気づいていない。「親の期待で、子どもを縛る」という「見えない虐待」である。子どもは親の輝く顔を見たい一心で生きている。そんなふうには見えない子どもでもそうであることは、自分の子ども時代を思い出せばわかるはずなのに、親という役割に囚われた人は、このことを忘れてしまっている。こんな子どもに親の期待を雨あられと浴びせかけ、期待の視線で縛り上げるということが、この少子化時代に普遍的な親の子ども虐待である。
親にラーメンをぶっかける子は、かけない子よりましなのである。頭にかかった熱いラーメンは、親の頭を冷やすだろう。ここから自然の理にかなった親子関係が始まるかもしれない。
残念なのは、この期に及んでなお、親の「虐待」に逆らえない子が圧倒的に多いことである。そして、こんなのが「健全な親子関係」と呼ばれているからお笑いだ。健全な母たちは、子どもに献身することによって子どもたちを追いつめ、夫に献身することによって、男たちを過労死の淵に追いたてている。この種の献身を「共依存」というが、この概念の含意するところはまだ充分に理解されているとは言えないようである。
本当は、ラーメンをかける前に、子どもが「No!!」と言えれば良かったんでしょうけどね‥‥
我慢に我慢を重ね過ぎて、いきなり爆発する子供や大人が増えて来ている様に、ワタシには思えます。虐待している人に、虐待しているという自覚がナイのだから、救いようがナイのだと言えばそれまでなのですが‥‥