2006年10月05日

父母と対決して自由な子どもに

ともあれ、HPはどうなったのか現在調査中です。判りましたら、御報告しますね。心配して、メッセージやコメント頂きまして、本当にありがとうございます!!

では続きです。

2 母なるものと対決する‥‥夢を通して、繰り返し繰り返し、母親に対して、あるいは父親に対して、充分に養い育ててくれなかった不満を述べ立て、恨みごとを言い、腹立ちをぶつける。幼い頃から両親は共稼ぎで忙しく、励ましの言葉や優しい言葉を掛けてくれることは少なかった。幼い頃から心中深くわだかまっている両親への不満、恨み、怒りを吐き出し、両親ときちんと向き合うことによって、人は、ようやく少しづつ自分の「幼さ」に別れを告げることができる。

意識的にはまあまあ不満のない親子関係だと思っていても、夢の世界では、本人も驚くような激しい不満や怒りが表出されてくることは珍しくない。夢に出現する母親、父親は、多くの場合、現実の両親像を超えている。夢に表現される母親に対する激しい怒りは、往々にして、溢れるほどの愛情を注ぎこんでくれるべき、万能な母親像に向けられている。そんな完璧な母親は、自分のこころの中にだけ存在して、現実にはどこにも存在しない。それを認識して、万能な母親像の呪縛から脱して、現実の母親をほどほどの存在として受け入れていくことは、哀しいこころの作業である。この激しい怒りには、現実の母親は決して万能な母親ではないという哀しみも伴っている。

3 父なるものと対決する‥‥幼児期から非常に干渉的で、子どもの自由を奪い、子どもの生活すべて支配しないと気の済まない父親、その存在を自覚し、言葉だけでは充分に表現できない深い認識とカタルシスを与え、同時に父親や父親に対する怒りからの解放感と癒しをも与えている。

夢の世界で、われわれは、実の両親だけでなく、「溢れるほどの愛情を注ぐ万能であるべき母なるものへの甘え」「満足に育たなければ我が子を喰い殺し呑み込む母なるものへの恐れ」「偉大な教え手、導き手であるべき父なるものへの依存」「掟に背けば直ちにこの世から追放し殺害する父なるものへの恐怖」といった元型的な「父なるもの」「母なるもの」との対決である。

4 生き生きした自由な子どもを回復する‥‥幼い未熟なものを克服しながら、なおかつ、生き生きした自由な子どもをこころの中に保持し続けることは、相当に難しいこころの作業である。

こころの深くに放置したままにしていた、「子どもたち」、こころの機能としての、周囲に対する生き生きとした好奇心、未知のものに飛びついていく冒険心、慣習に囚われない自由な発想や想像力、他者の喜びや悲しみに向けられる繊細な感受性、小さなもの、幼いもの、弱いものへの共感性、などといったものを表している。その子どもたちを、太陽と緑のもとに誘い出して、本来の「自己」に、「これを求めていたんだ。こんな嬉しいことはない」と思わすようにしよう。
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