2006年10月28日

虐待という病理

さて、今朝の続きです。

「虐待」というのは、ABUSEという言葉の訳語なのですが、ABとはアブノーマルのアブと同じです。ですから、本来の直訳「誤った取り扱い」という意味で考えると、より広く子供を「虐待」している親の親権を停止しやすく出来るのですが、日本では、過失ではなく、やっつけようと思ってした故意だと確定しないと、親権停止には出来ないのだそうです。

虐待を加えておいて、子どもの面倒を見る権利があるとは変だと思うでしょうが、生活保護費めあてだったり、体面を汚されたくないがタメに、親権の剥奪を拒否する人も多いようです。

その障害は、第一に、親は、故意ではない、子どもに良かれと思ってやったことであると主張して、自らの責任逃れをしてくるであろう。
(本来はこの話とは無関係ですが、この発想は高校の必修科目未履修問題の言い訳と酷似している様に思うのは、ワタシだけでしょうか。とすると、日本の教育を担っている地位のある方々は、虐待している親と同程度というコトになりかねない。今朝の失敗せずに、成功を無理強いするのも虐待であるという部分と重ねると、さもありなんと思うべきコトなのかもしれないが、子供を無理に自分の鋳型にはめ込もうとするのは、大変危険なコトだと言わざるをえない)
いじめようとしてやったのではない、懲戒だと思った、体罰を加えようと思ったに過ぎない、といってくるに違いない。つまりは過失の主張をするであろうことが予想されるが、これに対抗するのは容易ではない。

第二に、「虐待」は「悪い意思」と法律判断の中心におくと、その後、反省した者は「悪い意思」は解消されてしまう。
そうすると虐待だったと判断されても、今は反省しているからと、親権の剥奪まではしなくてもということになるが、虐待者の常として、反省は一瞬のもので、かっとすると反省は無力になり、理性など吹っ飛んでしまう。かっとするから虐待するのであって、反省はどちらかといえば無力なのである。
反省よりも、日常生活の習慣・会話・反応の改善を求める方が、効果的である。

第三に、両方の親と子どものそれぞれに知的障害などがあると、行動が意思に基づくかどうか、処罰にふさわしいかどうかの問題になる。

多くの虐待問題は、親子とも虐待関係から抜け出ようとしても、その方策がわからない、人間関係の持ち方がわからない、子どもに対する接し方がわからないという場合が多いので、処罰しようとして、抵抗されるよりも、一度処罰評価を棚上げして、虐待を招く人間関係を改善するために、虐待の社会関係、人間関係、心理過程に対し、原因を究明しつつ親と子どもに対し、社会訓練をすべきという考え方が、少しずつ認知されてきているそうだ。
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