今朝の本の何がスゴイのかというと、「貧困」の定義をしっかりと定めていてくれるというコトにつきます。裕福ならば、貧困と無縁なのかというと、残念ながらそうではありません。
何故なら、人間の欲望には限りがナイからです。
われわれは不可能なことにあこがれる。それが手に入るものなら、不死や全能を願わないものがいるだろうか。ことによると、継続的な経済成長の最大の魅力は、それが人間の果てしない欲望を満たすことにあるのかもしれない。
富が増大するがゆえに、貧困が増大することもある。
貧困の反対は富ではなく充足である。満足、安心、安定した暮らしができることこそが、貧困ではないということなのだ。
「貧困はいくらかを欲し、贅沢は多くを欲し、強欲はすべてを欲する」
上の名言はセネカという人が語ったのですが、全てを欲した人間には、充足はナイ。どんなに周りから見れば満ち足りているように感じても、本人は「貧困」から抜け出せないのだ。
著者は「一日一ドル未満で暮らしていても、暮らすに困らない人もいる。もし、その人々がグローバル化の名の下に、ある程度の御金を得ることが出来たとしても、収入以上の御金が生活に必要な暮らしになるならば、それは決して貧困から抜け出たのではなくて、貧困になったのだ」という趣旨のコトを述べている。
グローバル化という御題目に踊らされて、逆に貧しくなっている人間が増えているという。
全ての人が、不足を感じなくなるのではナク、発展途上国の人々の労働を搾取するコトで、先進国が繁栄しているのが、現代の「グローバル化」と呼んでいるコトの、本質なのです。
水が、民営化され、有料となることで、水道料を払えない人は、飲み水にすら事欠く様になる。
エチオピアで三児の母が、自宅近くの木で首を吊って死んだのは、二〇kmくらい離れた一番近い井戸から戻る最後の一歩で倒れ、数日子供たちを生かしておいたであろう貴重な水をこぼし、土で出来たつぼを割り、既に借金を負っていた彼女には、飲み水を汲んで来るタメのつぼすら買うことが不可能だったからである。
世界には、我々の想像も出来ないような「貧困」が、「開発」という美名によって、逆に作り出されているコトもあるのだそうだ。