2007年02月26日

老いを生きるというコト

今朝の本の内容にいきます。今朝は、全部読み終わってなかったコトもあり、ただ医療サスペンスを得意とする作家なので、あまり深く書くとマズイかなと思っていたので‥‥

案の定、最終章でどんでん返しが待っていました。何作目かなので、結末は既に予想はしてましたが。

ともあれ、老いて来た人生の話を読むと、ワタシは昔からお年寄りの身の上話を聞くのがキライでは無かったので、千差万別とはいうものの、とりたててショックではありませんでしたが、家にお年寄りがいらっしゃらない方とか、肉親のクドクドとした昔話を拒絶している人は、一度読んでみた方がイイかもしれません。第三者の話ならば、そんなに抵抗がナイでしょうから。

とにもかくにも、こういう方々が居て、現在の日本があるのです。

「国を愛する」気持ちというものは、先祖を敬う気持ちから入るのは当然ではありますが、ともあれ、老人が安心して終末医療を受けられなくなっている以上、日本の国は「弱者である老人」を大事にしてはいません。

労働力として国に奉仕し、「産む機械」として尽くしてくれている間は、大事なフリをしてくれるかもしれませんが、政治家の方々にとって、一般大衆など単なる「集票マシーン」に過ぎないのだろうと思います。

故に、終末医療に対する考え方を議論するコトもナク、おそらく政府主導で議論するならば、ココで主題となっている「ターミナル・ケア」よりも、もう一歩踏み込んだ話になるであろうコトは、想像に難くありません。

ワタシの個人的意見としては、臓器移植カードも結構ですが、出来れば尊厳死カードを配布して頂いて、何度でも書き換え可能にして頂いて、自分がこうなったらこう治療して欲しいという意思表示をさせて貰いたいと思います。

臓器移植もソコとリンクすると思うからです。「脳死」になった場合、「完治不能の病」になった場合、「痴呆」になった場合等々で、栄養を経口摂取出来なくなった時にどうするのか、永久的に人工栄養を投与されて生き延びるのか、胃にチューブを付けてまで生きるのか、気管支を切開してまで呼吸を確保して貰うのか、などなどの選択を、ゼヒ意思がはっきりしている内にさせて欲しいものです。

他人に判断して貰う筋合いのものではナイと思いますから。死にそうになって、意見が変わる可能性はあると思いますが、でも元気でいた時の思考が一番その人の意思に近いのだろうと思います。「痴呆」になってからでは遅過ぎるので。無論、家族の意思も尊重されるべきでしょうが、人生の最期くらいは、その人の意思を最大限に尊重して欲しいものだと思います。
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この記事へのコメント
その昔、仁徳天皇という方が「高き屋に登りて見れば煙立つ・・」
天皇はある日、高殿から見た奈良・春日野の村むらから煙が立っていないのは、租税が重くて民の暮らしが立ち行かないからと心を痛めました。
現在の政治に携わる方、少しはこのような心を持っていただきたいのですが・・。
Posted by takachan at 2007年02月27日 06:52
takachanさん、本当にそうですね。

タダ、仁徳天皇が本当にそういう善政をされたのかは、古代研究家の中には異論もあるトコではありますが‥‥

実の兄弟を殺して帝位に着き、政略結婚した妻の実家を滅ぼしたある意味スゴイ人だったので。

そういう風に、人民は為政者の真実の姿を知らされずに、昔からアクセク、アクセク働かされて、働かせされて、やっと生きて来たのです。

多くの一般国民が「生きてて良かった」と思える時代は、何時来るのでしょうか?
Posted by koyuri at 2007年02月27日 08:02
 
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