2007年03月20日

人間の身体は誰のものか?

おはようございます。昨夜の本の続きです。

これまで人間の身体は、親から授かったものとして家族に属していると思われていた。だが今は、自分に所属して「自由裁量権」があると考えるようになった。身体は自分が所有しているから「改造できる」「売買ができる」と思える。

援助交際で売春した少女の「だれにも迷惑をかけていない」という言い方には、自分の身体は自由に扱うことができるという判断が隠されている。臓器移植を進める医療の中にも、身体に対する自由裁量の考えが見え隠れする。それが私たちに、割り切れない感情をもたらしている。

さらに人間の受精卵の遺伝子を調べて、男女の区別や傷害の有無まで分かるようになった。私たちは「自分が望むいのち」を、自由に手に入れることができる時代に生きている。さらに心臓や神経、血液など人体のあらゆる臓器や組織に分化できる、「万能細胞」の研究が日本でも始まろうとしている。万能細胞をつくるには、母胎に戻せば赤ちゃんに育つ、人間の受精卵を必要とする。人々の身体への限りない欲望は肥大化し、その先に、体外受精の過程で多く生じた受精卵を、その親ばかりではなく第三者が利用できる自由裁量権をも手に入れようとしている。いのちの第一歩になる受精卵に対しても、私たちにとって役に立つかどうか、という「査定」の視線が絶えず注がれている。

そのように、受精卵までを自由に扱える、自由裁量権を認める社会では、世間の視線から望まれる「完璧な身体」が人々の目指すべき像になる。競争に打ち勝つ、ということが最高の価値の時代には、他者の「拍手の大きさ」が行動原理になる。異性を「そそる」かどうか、他者に受けるかどうか、が身体を扱うときの基準になる。まず自分を変えたい、と思うと、身体が可変可能らように視野に入ってくる。「生命は有限」「時間は繰り返さない」「肉体は傷つく」という「現実の掟」から離れて、自己はどこまでも自由である、と考えることを不自然と思わなくなる。そんな世界で私たちは生きている。当然、世間の目が集まる身体を、子どもは価値として選ぶ。受け狙いは果てがない。すると、現実から身体は浮遊し始める。

こんなに長く引用したのは初めてかもしれません。無論、今までのブログを読んでくださってる方々は、「身体髪膚これを親に受く これを咀嚼せしむるは不孝の始めなり」(だったかな?)という戦前の教育勅語の時代に戻って欲しいと言っているワケではないと理解して頂いていると思います。人間が何に対しても傲慢になっている。それが諸悪の根源ではナイかと思います。
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