こうすれば、「いじめ」はなくなる―いじめ社会の子どもたちという本で、仏教思想家のひろさちやさんと、小児科の藤本保さんの共著の中から。
わたしたちは、何か議論するとき、必要か不必要かで問題を考えます。というコトで、「競争は悪」というコトや、「体罰は悪」と言うと、「日本経済の成長のタメなら競争は必要でいいこと」と反論する経営者や、「体罰があるから教育できる。体罰は必要。だから体罰はいいこと」と述べる人が居て、必要なものはすべて善と考える人が多いというのです。
そこで忘れてならないのは、善か悪かという視点です。必要・不必要と善・悪を考えなければならない。ただ注意したいのは、必要か不必要かの次元と善か悪かの次元は、全く別の次元の問題だということです。それを一緒にしてはいけないのです。
別々に論じなければいけないのに、どうもわたいたち日本人は、この必要性と善悪の問題とを一緒に論じてしまう傾向があります。
わたしたちは、必要なものは善である−−と考えてしまう。当然、不必要なものは悪です。どうも、日本人は短絡的にそう考えてしまうようです。
でも、必要でも悪なるものもあれば、不必要でも善なるものがあるはずです。
日本人は、「必要ならば善」と考えてしまう。その対偶命題は「悪は不必要」です。「必要ならば善」というのと、「悪は不必要」というのは全く同じことです。日本人はこの原理でものを考えるのですね。
だから、売春を公認している国に旅行すると、売春ツアーとして、集団で少しも恥じるコトなく集団で押しかけ、顰蹙を買う。公認されているのだから、いいことだと、少しも恥じないから。
無論、そういう国で外国人も買春するのだけど、悪いコト、恥ずかしいコトという罪悪感があって、隠れてコソコソやるというのです。
つまり、必要でも悪なコトもあり、不必要でも善というコトがあるのです。今回、問題になっている「テロ対策特措法」も、アメリカとの協調は大事だ、だから善なのだという論法がこれからマスマス増えるコトだと思います。
とはいえ、「いじめ」は不必要で悪だけど存在すると思うし、だから、「いじめ」ても仕方ナイとは言えない様に、物事は複雑だと思うのです。
一昨日の、かなりコメントを沢山頂いた光市の弁護団についても、『悪だから不必要だから排除せよ』という考え方をせずに、弁護は『悪だとしても必要なのだ』というのがワタシの考え方なのです。(本当に弁護団が悪かどうかは、マスコミからでは正確にジャッジ出来ませんしね)
「戦争は悪」なのですが、論理のすり替えによって、「戦争は必要だから、善なのだ」というコトを政府が言い出すのではないかと思っているから、この話をしているのです。
少なくとも、日本が無謀とも思える太平洋戦争に突き進んだのは、「戦争は必要だから、善なのだ」というコトを国民の多くが信じたからです。それと同じコトが今の学校教育で起きているから、「いじめ」も起きるのだというのが、上の本の主旨ですが、なし崩し的に現状を追認するとかなり危ない状態が再び訪れる可能性があると警告しておきます。どうも、前に書いた「密告」制度には、裏がありそうですし、ネットで徐々に問題になって来ているので、皆さんもゼヒ、目を光らせていて下さいね。