2009年06月18日

解散前に、駆け足で決めるコト?

臓器移植法改正は、脳死を一般的な人の死と認め、臓器提供の年齢制限を撤廃し、小児の移植に道を開くA案が衆議院議員で可決されたというのだが、そもそも前の法律が決まった時から、もっと早くに見直すと決められていたのに、世界保健機関(WHO)は自国内での臓器移植拡大を求める指針決定に動き出しており、将来、渡航移植の道が狭められる可能性が高いからと、今まで議論を積極的にして来なかったのに、急遽、慌てて議決した感じがする。

少なくとも前回の法律制定の時に、15歳以下が外されたのは何故だったのかという根本的な問題が話し合われたのか、どうか。

この問題は、日本最初の心臓移植の時の問題と大きく関係していて、本当に心臓を提供した人は脳死だったのかというコトを、疑問にした渡辺淳一作「ダブル・ハート」という小説もあった。

もし、提供せずに生き残るコトが少しでも可能性があるならば、なんとか生かすべきだと思う。

何故ならば、移植を受けたとしても、生体反応で貰った臓器を異物として排除する力が強ければ、生存出来るとは限らないからだ。

多くの家族は、子供の死などという突然の出来事に思考停止状態になっているに違いない。

「せめて子供が生きていた証しに、臓器を提供してあげたくなりませんか」などと、医療関係者の方々から勧められれば、ナカナカ拒否はしにくいものだ。

とは言え、本当に亡くなってしまうのであれば、臓器を誰かにあげたいという気持ちも理解出来る。

となれば、せめて子供の脳死判定は、大人よりもより慎重でなければならないというコトで、もう少し厳格な「脳死判定基準」を別に設けるといった措置が必要だったのではないか。

まず先に、臓器移植ありきではナク、子供の家族に「本当に子供が亡くなるのだ」という実感をしっかりさせるコト。

その先に、「臓器提供がなされるのであれば、それは有難いコト」という順番ではないだろうか。

「臓器提供が必要な子供が存在する」というコトが先立って、だから「脳死の子供は良い状態で臓器を提供してくれる貴重な存在」と考えるというのでは、本末転倒ではないだろうか。

脳死の子供からの臓器提供は絶対に反対というつもりもナイが、少なくとも「もしかしたら助かったのではないか」という希望が一抹でもある限りは、やはり脳死の子供の奇跡的復活を待つべきだと思う。

友人の子供が事故で脳死になり、一週間後に人工呼吸器を外して亡くなったというコトが、過去にあったのだが、その時はまだ脳死移植という時期では無かった。

「一週間、脳死状態で生きていたんだけど、もうダメなんだと思ったから、延命措置を止めて貰った」と友が語ったコトは、今でも覚えている。

そういった感じで、親が子供の死を受け入れてから、初めて「移植」という話に進んで欲しいと思うのだが‥‥
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この記事へのコメント
脳死の問題はもっと慎重であるべきだと私も思います。知り合いのドクターが臓器移植を担当した麻酔医に聞いた話だとドナーから臓気を取り出す際、バイタルがかなり動揺したらしく、ドナーは生きているようにしか見えなかったということだったらしいです。脳死での出産例も数多くあるようですし、脳死を人の死とするのは問題が多いのではと思います。
Posted by 鍼医K at 2009年06月19日 00:11
鍼医Kさん、ソコなんです。

家族が「本当にもうダメなんだ」と実感してから、移植の話に移るべきで、「脳死になったら、移植する」という話が先にあるのは間違いじゃないかと。

臓器は、本人のモノであって、他人のモノではありませんから。
Posted by koyuri at 2009年06月19日 19:35
 
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