家賃の安い市営住宅に移るコトもままならず、新しい仕事も見つからずというコトで、卒業式の朝、小学校生活最後の登校をするはずだった少年の首を絞めて殺害したのは、母親だというのだから気の毒だ。
日本国憲法には、国民の生存権が書かれているというのに、不心得者が居るからといって、本当に困っている人々が生活保護を受けられず、亡くなったり、心中しようとする事件が時々ある。
「生活保護」を受給するのは恥というマイナス・イメージをマスコミは流しながら、弱者を叩く。
本当に叩かれるべきは、税金のつまみ食いをしたり、無謀な投資で赤字財政にした人々なのだが、滅多に行政は叩かれず、納税者が晒される。
ともあれ、景気の循環という意味では、働かなくても確たる理由があるのならば、生活保護の受給者も存在意義はある。
殺されてしまった少年が、将来、社会に貢献する人間にナラナイと、誰が断言出来るのか。
そもそも、非正規雇用の人々が安い賃金で働いていたりするから、世の中の物価はさほど上昇しないで済んでいるというのに、そういうコトは甘受して、その人々の生活が崩壊した時に、知らん振りをするというのは変な話。
誰でも、生きて行く上では、霞を食べているワケではナイのだから、時として苦しくなるコトもある。
「アベノミクス」だ何だと大騒ぎしていても、その分け前に与れるのは、持てる者達だけ。
少なくとも、運に恵まれない人々には、出来る範囲で分け与え、再出発への助走時間を提供すべきだろう。
でなければ、何れ因果応報で、自分にもそうした悲劇が待ち受けているかもしれないという想像力を、国民全体で分かち合うべきだと思うのだが‥‥