2013年08月09日

物事の表層しか見ない人の‥‥

戯言としか思えないのが、「無縁社会」に対する宗教学者と名乗る方の言い分

若い人は、忘れてしまったかもしれないが、彼がオウム真理教(現アーレフ)に対して終始好意的な評価をし、地下鉄サリン事件発生後もオウム真理教の関与を否定するコメントをマスコミに発表し、警察の強制捜査を批判するなどして擁護をしたコトは忘れられない。

特に、オウム真理教の教義は良かったのにという弁明を何かの本で読んだ時には、口が上手いから詐欺師になる人も多いというのに、教義だけを見て活動を見ない宗教家って‥‥とビックリした。

そもそも、無縁社会や無縁死が問題視されるのは、年老いて独りでは万全な生活を営めなくなる時。

家族と友人では、支えられる部分への関わり合いが違う。

人生というのは、良い時ばかりでは無い。

それでも、支えられるかどうかというのは、責任の有無に左右される。

年老いてボケてしまうと、ホトンドの人が自分で大切なモノを何処に置いたかを忘れやすくなるモノだ。

だが、自分の非を認めたくナイと思う老人は、自分が悪いのではナク、誰かが隠したとか盗んだと思いたがる。

そうした時に、友人であるコトを続けられるかどうか。

通常は、ソコで友情は終わるであろう。

家族なればこそ、どんな嫌な目に遭ったとしても、何とかしたいと思う可能性は残されているけれども、それすらも難しい時代になっているからこその、「無縁社会」。

そんなに簡単に明るく捉えられないのが、人生を地に付けて歩んで来た人の思いだろう。

下手な気休めを言わず、自分の子供が居たとしても、「無縁社会」へのリスクは残るのだけれど、少なくとも一定割合では減少するのだから、家族として自らが望まなくても生まれて来た子供というポジションから脱して、自分から家族を求めて行動し、何とかして「無縁状態」から抜け出す努力をすべきだと説くべきだと思うのですが‥‥
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