全てが隠蔽されてしまうのだなと思ったのが、こちらの本。
去年、映画になるまでは著者の作品にコレが存在する事もすら知らなかった。
少し前に、著者の「たぶん最後の御挨拶」を読んだ時に、全く売れなかったと書いてあったが、確かに本日、やっと順番が回って来た図書館のかなり黄ばんでくたびれていた単行本は、なんと初版本だった‥‥(映画を見終わった後に、本屋に行ったけれども売って無かったので、図書館に予約するコトにしたタメ)
ともあれ、流石は理系の人というコトで、しっかり組み立てられた小説で、映画などよりシッカリ背景が描かれていた。(そもそも、滅多に本を読んでからは映画を見ないコトにしているのは、ガッカリする事が多いからなのだが、その逆は満足するコトが多い)
そもそも、我々は普通の軽水炉の原発と高速増殖原型炉「もんじゅ」の違いを、しっかり認識して無かったけれども、既に三十年前に、世界の国々がペイしないからと撤退をしていたというのに、毎年、点検や維持管理、人件費などで年間200億円を超える事業費がかかり、もう延べ一兆円以上を注ぎ込んだというのに、核燃料リサイクル事業は不可能のまま、それでも馳浩文科相は「核燃料リサイクル事業計画を継続するのが政府の方針」とコメントしているというのだから、とても正気の沙汰とは思えない。
高速増殖炉「もんじゅ」を廃炉にするには、30年間で約3千億円の費用が必要という試算も、実際は額が膨らむ可能性はあるものの、無理な計画にこのまま30年間で約6千億円の費用を掛けて継続する方が恐ろしい。
再稼働したばかりの関西電力高浜原発4号機は再稼働前に1次系冷却水が漏れるトラブルも発生したばかりなのに、送電開始のレバーをひねった瞬間、「ファンファンファン」という甲高い警報音が鳴り響き、警報盤のランプが点滅し、自動停止したという。
そもそも、放射能の無毒化が未だに出来ず、廃棄物をどうするかの目途が着かないまま、作り出すという神をも恐れない行動が、福島原発の悲劇を生み出したというのに、反省する気は全く今の政府にはナイらしい。
どんなに目を向けさせないで処理しようとしても、原発事故の汚染は消えないだろう。
惜しむらくは、この本が最初に発売された時に、我々国民がもっとチャンと考えていれば、今の福島及びその周辺地帯の汚染は起こらなかったに違いナイという現実だ。